希言は自然なり
聞きとれない無声のことば-「不言」-こそが、なありかたである。
だから、さわがしい暴風は半日とはつづかず、うるさい豪雨は一日じゅうはつづかない。そうしているのはだれかといえば、それは天地である。天地でさえも長くつづけることができないものを、まして小さな人間ではなおさらつづかない。大声を張りあげてしゃべりまくる不自然なことは、やめたほうがよい。
そこで、「道」に従っで行動するものは「道」と一つになろうとし、「德」に従って行動するものは「」と一つになろうとし、「德」を失った仁義や礼に従って行動するものは、その失德と一つになろうとする。よけいなおしゃべりはいらない。
「道」と一つになろうとするものには、「道」もまた喜んでかれを受けいれ、失德と一つになろうとするものには、失德のほうでもまた喜んでかれを受けいれる。
こちらでよけいなおしゃべりをして誠実さがたりないと、先方でも信頼しなくなって、受けいれられなくなるものだ。
希言は自然なり。故に飄風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰れか此れを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於てをや。
故に道に従事する者は、道に同じ、德なる者は、德に同じ。失なる者は、失に同ず。道に同ずる者には、道も亦たこれを得るを楽しみ、德に同ずる者には、德も亦たこれを得るを楽しみ、失に同ずる者には、失も亦たこれを得るを楽しむ。
希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰為此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。
故従事於道者、同於道。德者、同於德。失者、同於失。同於道者、道亦楽得之、信不足、焉有不信。
「道」の説明として、「聞きとろうとしても聞こえないもの、それを希と名づける」ということばが、第十四章にあった(五二ベージ)。「希言」はだから無言の言である。真実の「道」は、何もいわなくても、無言のうちにすべてを語っている。その声なきことばこそが、人間の営みとは違った自然なありかたである。人はそれを模範にしなければならない。「希(稀)な言」として少言の意味にとることもできるが、むしろ不言の意味とみるのがよい。
「不言の教え、無為の益」といわれている(第二章·第四十三章)その「不言」を説く章である。
人は一般にそのさかしらによってことばを並べたがる。沈黙を守ることはむしろ勇気のいることだ。そして、話せば話すほど、己れの本来の自然なありかたから離れ、真実から遠ざかり、やがて他人からも見放される。ことばとはいったい何だろう。「名として言いあらわせるような名は、不変の真実の名ではない」ともあった(第一章)。『老子』において、ことばに対する懐疑と不信は強い。
「そこで、道に従って行動するもの」より以下の中間の一段は、意味がとりにくい。「道」や「德」を対象として従事していくのにことばの媒介はいらない、という主旨で連続を考えたが、文章のいれちがいなどの誤りがあることも考えられる。底本では「従事於道者」の下にまた「道者」の二字があり、下文の「德者」「失者」との対応がよいが、古くはなかったらしい。『淮南子』道応篇、帛書甲·乙本ともにない。「德者」「失者」はそれぞれに「従事於」の三字を省略したものである(兪樾の説)。「失」を失德としたのは、第三十八章に「道を失って而して後に仁」以下、義と礼が出てくるのをふまえたものである。「信足らざれば」の二句は前の第十七章にもあった。そちらでもその前文との連続が必ずしもよくないが、ここでは一層唐突の感がある。帛書には甲·乙本ともにこの二句がない。それに従って除くべきかとも思うが、一応つづけて解釈をした。
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