すのである 。
この章も、前の章と同じで、「道」を獲得した哲人のことである。ただ、前には古人のこととして古代に理想を託(たく)していたのが、ここでは「吾れ」という老子みずからの体験として語られており、それだけに具体的で実践的だといえるであろう。世界の真相が見ぬけるのはなぜか。最初のこ句がその解答である。虚静(きょせい)の立場にわが身を沈めること、すなわち無心無欲になって自分の本来性に目ざめることである。それは特殊な一種の精神状態として、その獲得は一つの修行であるともみられる。そして、そこからみえた実相、それは復帰とよばれる万物の始原への回帰であった。哲人老子に誘われて、われわれもまたその回帰の流れに身をまかせ、深い静けさの奥にひそむ「道」との合一を果たすことができるであろうか。
「虚(きょ)を致す」の「虚」は、前の章の「谷のごとし」でも述べたように、心を空虚(から)にして無心になることである。心の雑念をはらうこと、つまりは欲のとらわれをなくして虚心坦懐(きょしんたんかい)に徹することである。そこに心の平静が得られ、内的な深い立場にたつことになる。「静を守る」ことがつづいていわれるのはそのためであった。「夫(そ)れ物の分芸芸(うんうん)…」の句は、草木を例にとって考えられている。「芸芸」は草木が盛んに生い繁るありさま、河上公(かじょうこう)注に「花と葉の茂盛のさま」とある。それが「根もとに帰る」というのは、秋に葉が散って根もとに落ち、やがてその堆積(たいせき)が新しい芽生(めば)えの肥(こや)しともなるといったことである。『老子』はこの自然の循環を考えながら、生長繁茂(はんも)の現象に気をとられる俗人とは違って、現象の奥の根源へ
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