日语阅读:电脑时代,手书减少
暮れの宝くじが外れたあとのささやかな楽しみに、お年玉つき年賀はがきがある。今年も当たりを調べつつ、もらった賀状を眺めなおした。あらためて思うに、印字の宛名が多い。数えると半分を超えていた。
作为未中年末大奖之后的小小期盼,还有个有奖贺年卡。今年我也是像往年一样查看着收到的贺年卡,看看有没有中奖的。从中我有一种全新的感受,发现其中收件人姓名住址等信息多为打印而成,数了数居然超过了半数。
その4割は裏にも自筆の文字がない。近ごろはネットで注文すると印刷から投函まで代行するサービスもあるそうだ。水茎の跡もうるわしく――といった表現は死に絶えてしまうのかも知れない。
而且其中又有4成连背面也没有手书的文字。最近听说从印刷到投递网络上都有相应的代理服务。也许笔迹也优美之类的表达形式行将走向死亡。
手書き時代のたそがれに、県立神奈川近代文学館で開かれている「作家と万年筆展」を見た(26日まで)。夏目漱石から現在活躍中の人たちまで、手書き原稿の迫力が静かに伝わってくる。
在手书时代的渐入黄昏之际,我观看了县立神奈川近代文学馆举办的"作家和钢笔展"(26日截止)。从夏目漱石到现今仍活跃在第一线的作家们的手书原稿中传递出的冲击力给予我无声的震撼。
かしこまった書ではない。いわば普段使いの字ながら、伊集院静さんのなど、男でも惚れそうな色気がある。ひるがえってパソコンに丸投げの拙稿を思う。「愛」と書くところをツータッチでai、「死」をsiと打てば、重みも実感も薄れる心地がする。
其实都并不是郑重书写的字体,也就是说全是一般情况下的平常字体,但是,诸如伊集院静先生等人那样,即便是男性也具有一种令人爱不释手的魅力。回过头来我又想到了完全依靠电脑的本人拙稿,当要写"爱"字时,只要敲击两下a i,"死"字s i,分量与实际感受变得非常淡漠。
「書く」の由来は「掻(か)く」と同じで、石や木を引っかいて字を刻んだためという。それを踏まえてだろう、書家の石川九楊さんが述べていた。たとえば「殺す」と書くには相当な(心の)エネルギーが要るものだ、と
"书写(kaku)"一词字源与"划、搅(kaku)"一词相同,据说因为是在石头及木头上划上印记然后再刻成字的缘故。书法家石川九杨先生认为这恐怕是"书写(kaku)"一词产生的基础。例如,书写"杀戮(korosu)"一词就需要相当的(心理)能量一样。
その通りと思う。だが、そうした言葉もキーボードだと楽に打てる。心が字面に追いつかないまま、言葉ばかりがインフレになり、安く流通しがちだ。激しい言葉に限らない。絆とkizunaは似て非なる字ではないか――などと、展示された万年筆を見ながら考えた。
我赞同这一观点。然而,这些词汇到了键盘上敲击起来就变得很轻松了。心理不必追着字面之意走,只是词汇本身在自行扩展,流通也极为便利。这种情况并不只限于那些词义严厉凝重的词汇,诸如,纽带(絆)和kizuna,不正是相似而并非等同的两个词吗?类似这些看法,都是在观看了展示的钢笔后感受到的。
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