古典文学阅读辅导:吾妻鏡
(一)治承四年庚子
四月小
九日、辛卯、入道源三位頼政卿、平相国禅門(清盛)を討滅す可き由、日者(ひごろ)用意の事有り、然れども私の計略を以ては、太(はなは)だ宿意を遂げ難きに依り、今日夜に入りて、子息伊豆守仲綱等を相具して、潜かに一院(後白河)の第二宮(以仁王)の三条高倉の御所に参り、前右兵衛佐頼朝以下の源氏等を催して、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給ふ可きの由之を申し行ふ、仍つて散位(無官)宗信に仰せて、令旨を下さる、而して陸奥十郎義盛(廷尉為義の末子)、折節在京の間、此令旨を帯して東国に向ひ、先づ前右兵衛佐(頼朝)に相触るるの後、其外の源氏等に伝ふ可きの趣、仰含めらるる所なり、義盛は、八条院(__子内親王)蔵人に補せらる(名字を行家と改む)。
廿七日、壬申(己酉)、高倉宮の令旨、今日前武衛(兵衛の唐名)将軍(頼朝)伊豆国の北条館に到着す、八条院蔵人行家の持ち来る所なり、武衛水干を装束(そうぞ)き、先づ男山の方を遥拝し奉るの後、謹んで之を披閲せしめ給ふ。
(二)源頼朝、任征夷大将軍
(建久三年七月)廿日、庚寅、大理の飛脚参着す、去る十二日、征夷大将軍に任ぜられ給ふ、其除書、勅使を差して進ぜられんと欲するの由、申送らると云々、
廿六日、丙申、勅使庁官肥後介中原景良、同康定等参着す、征夷大将軍の除書を持参する所なり、両人(各衣冠を着く)例に任せて鶴岳の廟庭に列立し、使者を以て除書を進ず可きの由之を申す、三浦義澄を遣はさる、義澄、比企右衛門尉能員、和田三郎宗実、并びに郎従十人(各甲冑)を相具し、宮寺に詣(いた)りて彼状を請取る、景良等名字を問ふの処、介の除書未だ到らざるの間、三浦次郎の由名謁(なの)り畢つて、則ち帰参す、幕下(御束帯)予め西廊に出御、義澄除書を捧持し、膝行して之を進ず、千万人の中に、義澄此役に応ず、面目絶妙なり、亡父義明、命を将軍に献り訖(おわ)んぬ、其勲功、鬚を剪ると雖も、没後に酬い難し、仍つて子葉を抽賞せらると云々。
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