寓言故事
晋の国が北方に侵入した异民族に圧迫されて建康(今の南京)に都し、东晋と称したのは西暦三一七年、それより隋が陈を亡ぼして天下を统一した五八一年に至る约二百六十余年の期间はいわゆる南北朝対立の时代である。
この时期は汉民族にとって不幸な一期间であった。北方中原の土地は异民族に制圧され、主として扬子江流域に逼塞するのやむなきに至り、しかもそれを统率する王朝の威力は弱くて、宋?斉?梁?陈という四つの王朝がめまぐるしく交代した。
権力は信用されず、文化は萎靡沈滞し、道徳と现実とには否定的となる、そういう风潮が支配的であったが、しかしこの逆境の中から汉民族は今までには见られぬ新しい精神的领域を获得した。それは仏の世界とか自然の境地とか、あるいは美的な洗练された感覚の世界とかである。
この时期の中顷より少しく以前に生を受け、六十三歳で死んだ陶渊明は、このような精神的新世界の最高峰であり、代表的大诗人である。渊明はいくたびか仕官をこころざし、そして失望し、四十歳以降の生涯を一农夫としてすごした人物である。
菊を采る东篱の下、悠然として南山を见る。
というこの有名な诗は彼の「饮酒」という题でまとめられている二十首の诗中にある。彼の故郷は柴桑といって扬子江中流の南侧にそびえる名山卢山の西南方にある一村里であった。
そこは、庐を结んで人境にあり、しかも车马の喧しきなし。という场所であり、さらに続けて、
君に问うなんぞ能くしかると。
心远くして地おのずから偏なればなり。
菊を采る东篱の下、悠然として南山を见る。
と彼は歌うのである。そこは人里から别に远く离れた场所ではない、それでいて生活を落ち着かなくさせるような车马のうるささは闻こえて来ない。何故そうかといえば、自分の心が人间世界から远く离れているからである。そこで自分は菊を东のまがきに采り、悠然たる南山の姿を见て楽しむのだ、というのである。つまり菊を采るとは田园の自然にしたしみ、そこにこそ安住の世界を见つけるという心境の象徴であるわけである。
さらに続ける。
山気日夕佳なり、飞鸟あいともに帰る。
此の中に真意あり、弁ぜんと欲して已に言を忘る。
何の変哲もない菊を爱し、南山を爱し、飞鸟を爱する、そしてその生活こそ、権力と野望と贪欲が死にものぐるいに格闘しあう世界にわずらわされぬ尊いものとして渊明は守り通そうとした。その态度を称して後世の人は渊明を田园诗人とか自然诗人とかいう。
ところで菊をとって楽しむというのは、渊明にとっては悠々として余生を楽しむというような呑気なものではなかった。むしろその日の食事にもことかくような恐ろしい贫乏な日々もあり、着物はつぎはぎのみじめなものであり、家は风雨を十分にふせぐには足りないという状态であったことを「五柳先生伝」という自伝で述べている。また「饮酒」の诗の序でも、长い夜は楽しみもなく、独りでいることが淋しくもあった、それをまぎらわすために酒(酒といっても自分で作った浊酒)をのみ、诗を作ったといっている。
彼はいかに贫しく、また淋しくとも、ともあれ自己のまわりにある手近の菊や鸟や山や、あるいは家庭や、ひいては百姓としての生活を大切に守り通してみよう、自分にとって正しいと思える生活、このような手近なものに対する爱に生きるよりほかにないと考えていたようだ。
自然诗人といっても、彼が歌った自然は自分の家にある松だとか飞鸟だとか、あるいは云だとか、そして、この菊だとかという程度にすぎなく、ごく限られたものであり、しかも平凡なものである。いわゆる自然诗人とか田园诗人とかいう名称から、ロマンティックな自然や田园を想像してはならない
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