鼎の軽重を问う
鼎は三つの足と二つの耳をつけた金属制の釜のことで、古代の中国では料理は勿论、表彰の具、釜ゆでの刑具などとして用いた。
さて话はずっと遡るが、周の定王元年のことである。楚の荘王は春秋の五覇の一人に数えられる(五覇の中に入れない説もある)ほどの実力者であり、大いに天下に対する野心を持っていた。この年の春、荘王は陆浑の戎を讨伐してから、洛水の畔に出た。洛水の北には周の都、洛阳がある。荘王は周の国境に大军をおいて、周王の出方如何では攻撃しかねまじい势いを示した。定王は楚のデモンストレーションに惊き、大夫の王孙満を遣って、荘王の労を厚くねぎらった。ところが荘王は、歴代の王朝に継承され、いまは周の王室に代々伝わる鼎とはどんなものなのか、かねてから知りたかったので、この时とばかりに、その「鼎の大小軽重」を闻いたのであった。
この质问を受けて王孙満は、鼎の由来から説き起こした。その説明によると、そもそも鼎は夏王朝の祖禹が、九州(昔、中国を九分した)の朝に命じて金を献上させ、これを用いて鋳させたものである。鼎の表面には万物の形を図にしてあり、人民に怪物の存在を教えたから、人民は安心してどんな山や川へも入って、生业に励むことが出来た。しかし、夏の桀王の世に鼎は殷に移り、殷の纣王の时に周に移った。周の成王は鼎を郊辱(今の洛阳)において、ここを王都と定めた。以後定王に至るまで三十代、七百年间継承されて来たのである。
最後に王孙満は强调した、「鼎の軽重が问题なのではありません、徳があるかないかこそが问题なのです。鼎は常に徳のある所に移って来ました。今周の徳は衰えたと言っても、今日まで鼎を伝えて来た事は、天の命ずる所でありまして、天命がすでに革まったとは思われません。従って鼎の軽重など讯ねられるいわれはございますまい。」
春秋时代はまだ周王の体面が保てた时代であった。荘王も力づくで周を攻めることも出来なかったので、やむなく兵を引き上げることにしたのである。
以上の説话は「春秋左氏伝」によるものだが、「鼎の軽重を问う」ことは、帝位を狙う下心のあることを意味する。というのは鼎の由来を见れば解るが、わが国の「三种の神器」のように鼎は帝位の象徴であったからだ。しかし、これから転じて今では「相手の実力や内情を见透かして、その弱みにつけ入る」という意味に用いられるようになった。
この话は「史记」によると、荘王が「人をして九鼎を问わしむ」となっている。「九鼎」は中国全土九州になぞらえた言い方であるが、前记の説话と同じ事である。ただ、周室の庙の「大吕」(大钟)と结んで、「九鼎大吕」という言叶がある。何れも同じ事で「伝来の宝」「王位」
「重々しいもの」の意である。
余谈であるが、「戦国策」の「东周」の所に、秦から九鼎を求められた周王が、臣顔率の弁舌で斉王の力を借り、秦を追い払ったことが见えている。しかし逆に斉王から九鼎を求められたとき、顔率は
「昔、周は殷を讨って九鼎を得たが、一鼎を九万人で引っ张って来た。九鼎を移すには、九つで九九、八十一万人もの人手が要りますぞ」
と言って、斉王を烟に巻いてしまう。また同所「秦」の条にも「九鼎」
の话が出ている。
ともあれその行方は周の灭亡の时、秦に运ばれようとして泗水に沈んだと伝えられるが、はっきりしたことは判らない。
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