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恒産なき者は恒心なし

来源: 2017-12-08 11:11

 それは周の赧王の八年顷のことと思われる。孟子はその理想である王道の政治を説いて诸国をめぐり歩いたが、いずれの国でも意见が容れられぬために、郷里の邹(山东省邹県)に帰っていた。すでに六十歳をだいぶ越していた。その顷滕(山东省滕県)という小国では定公が薨じ、その子の文公が即位したばかりであった。文公はかねがね孟子に私淑していたので、孟子を招いて政治の顾问とした。文公はさっそくいかに国を治めたらよいかをたずねた。孟子も文公の情热に感じてここに堂々と彼の见解を述べたが、これが有名な井田説である。

次にその要旨を伝えよう。

「诗経」の中に、「春は种まきなどで忙しいから、冬の间に家屋の修理を急げ」と戒めた诗があるが、国政もまず民衆の経済生活の安定から始まる。恒産つまり一定の生业と、恒心つまり変らぬ节操との関系は、「恒産ある者は恒心あり、恒産なき者は恒心なし」である。恒心がないと、どんな悪いことでもする。民衆が罪に落ちてから罚するのでは、法の捕网にかけるようなものだ。

昔夏は一人に五十亩、殷は一人に七十亩、周は百亩の田を与えて、その十分の一を租税としていた。夏の法は贡法と言い、数年间の平均収入を见て一定额を纳めさせたが、豊年にはあり余り、凶年には足りなくても取るという欠点があった。殷の法は助法と言い、私有の田と公田にわけ、公田からの収获を纳めさせた。周の法は彻法と言うが、助法を受け継いでいる点を考えると、助法こそ模范とすべきであろう。

こうして孟子は「恒産」を具体化したあと、「恒心」として学校における道徳教育を强调している。続いて文公は臣下の毕戦に井田法について质问させたことが见えるが、ここで孟子は助法を更に明确に説いている。

一体国家は君子(治者)と野人(被治者)より成立するが、その体制を维持するにはまず君子の禄位の世袭制を认めるべきである。野人の方は助法による九分の一税を确立する。そのため一里四方の土地を井字型に区分し、九百亩のまん中に百亩の公田をとり、残りの八百亩は八轩の家でそれぞれ百亩ずつ私有する。公田の共同作业が终ってから自分の田の方にとりかかる。民衆は相互扶助の体制ができ上がるので、土地を离れたりしなくなるだろう。

以上によって明らかなことは、この井田法は原始共産的なものであったろうということである。しかしその前提として治者と被治者を区别する主张は、後世の支配阶级に孟子が担がれた最大の理由となっている。

「恒産なき者は恒心なし」は「孟子」の?滕文公篇?にある、以上の话に出ているが、?梁恵王篇?にも出てくる。「仓禀実ちて礼节を知る」のように、孔?孟の主张が単なる修身ではなかったことを告げている。

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