秋の扇
漢の成帝の鴻嘉三年のある日、後宮の増成舎は常ならぬ慌ただしさを見せていた。ここの主の班紹伃が許皇後と共謀して、後宮の寵を受けている人々を呪詛し、帝の禦事を悪し様に罵り聞えたという嫌疑で、引き立てられて行くのであった。
噂によれば、趙飛燕姉妹がこの二人を帝に讒秦したのだという。趙姉妹というのは、つい先頃、宮婢として召抱えられたばかりであったが、その軽身細腰が帝の禦眼にとまって後宮に入り、たちまちにして姉は倢伃、妹は昭儀の位を賜って、姉妹して後宮の寵を専らにし、前代未聞と稱されたのである。
裁きは行われたが、冤罪である事が明らかとなった。しかし、哀れにも許皇後は建始?河平年間に寵に奢った事が禍し、廃せられて美人という位に貶された。
班倢伃は「『死生命有り、富貴は天に在り」と聞いております。
行いを正しく致しましてもなお、福がございませんのに、邪を致しましたとこでどうなりましょう。
神がこの不臣の願いを知ろしめたとしても受け付けますまい。
ご存じないとすれば願っても益のないことでございませんか。」と申し上げた。
帝は班倢伃の誠実に感動せられ、彼女を許されたばかりか百斤の黃金を賜った。かくて再び増成舎に戻ったものの、寵遇を失った身の今更にどうなろう、在るものは空しさばかり。いや、女の嫉妬がある。この度は幸い許されはしたものの、どうしてあの趙姉妹がただでおこうか。高祖皇帝の愛妾戚姫は、高祖皇帝の妃呂皇後のために、両眼をくりぬかれ唖にされた上に、手足を斷ち切られたではないか。恐るべきは女の嫉妬だ。賢良貞淑な班倢伃もさすがに途方に暮れた。なんとかしてこの嫉妬の渦巻く後宮から逃れる手立てはなかろうかと思い悩んだ。
そうだ、長信宮にいます皇太後の王氏にお願い申し上げよう。皇後さまは昔わたしが倢伃になって間もない頃、わたしの謙遜なのをお賞め下さり、以來何かにつけて優しい禦心をお示し下さる。今は皇後様におすがり申し上げるほかない。こう考えると班倢伃は一刻の猶予もせず、直ちに長信宮のお側に使えさせて頂くよう聞え上げたのであった。
長信宮には平安な日々が流れた。王氏のお話相手をする以外の時は、引き籠もって詩書をひもとき琴をもてあそびもする。しかし、時折飛鳥の水麵に映す影のようにかつての増成舎における、生活の追憶が心をよぎらぬでもない。
新たに裂く斉の"ガンソ"(白い練絹)、鮮絜なること霜雪の如し。
裁ちて成す合歓の扇、団々として明月に似たり。
君が懐袖に出入し、動揺して微風発す。
常に恐る秋節至り、涼飆(涼風)の炎熱を奪いて、篋笥(長持ちの類)の中に棄捐せられ、恩情の中道に絶えなんを。(怨歌行)
昔のわざわざわたしのために設けられた、宵遊宮の遊びに如何ばかり楽しかったことか。白絹の衣裳に著けた金銀の飾りが燭台の光に煌めく中で、帝の優しい禦眼差しを、いつもわたしの全身で受け止めていたのだった。その頃わたしは帝堯の女の娥皇?女英(共に帝舜の妻となり、婦徳の鏡とされている)とか、周の文王の母太任や武王の母"たいじ"
などような、婦徳の高い人でありたいと願っていた。ところが悲しいことに、次々と生まれた二人の息子は、何れも乳飲み児のうちにあの世に旅立ってしまった。天命で致し方ないにしても、これが帝が離れ給うたそもそもの因だったのだろうか。それからというも帝は衛倢伃へ、更に趙飛燕姉妹へと寵を移し給うた。禦越しのないままに玉階には苔むし、庭には草が緑をました。床をうつむいては帝の禦履物の飾りを思い、禦殿の方を仰いでは涙にくれたことが幾度あったことか、思えば人生ほど儚いものはないし、恩愛ほど移りやすいものはない。
歳月は長信宮に流れて綏和二年、成帝が崩じて間もなく、班倢伃も四十歳あまりの生涯を閉じた。「秋の扇」という言葉が、男の愛を喪った女にたとえられ、「秋の扇と捨てられて」雲々と言うように用いられるのも、前掲の「怨歌行」から出ている。
班倢伃の伝は「漢書」に詳しく、「自傷賦」もこれに載っている。
「怨歌行」は「文選」や「玉台新詠集」に見え、その故事は、江淹?劉孝綽?王昌齢その他多くの人によって古來詠ぜられている。
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