殷鑒遠からず
「歴史は繰りかえす」というが、「三代」として知られた中国古代の三王朝――夏?殷?周の興亡の歴史もまたその「繰りかえし」の一例である。
夏王朝は賢徳を謳われた建国の始祖の禹王からおよそ四百年、十七代目の後継者である桀王に至って亡びる。桀王も元来は知力武勇ともに人より優れて、王者たる器であったのだが、やがて彼の身をあやまらせたのは、彼が有施氏の国を征伐したときに貢物として送られてきた妹喜という稀代の艶女であった。桀王は彼女の歓心を買うために、ありとあらゆる手段を尽くして惜しまなかった。奢侈の限りを尽くした淫楽の日々がつづくうちに、国力は疲弊し、人民の怨嗟の声が高まる。人々は桀王を太陽になぞらえて、
この太陽の亡びるは何時、我ら汝とともに亡びん。
とまで詛いの言葉を吐く。その人身の帰趨を見て取ったのは、それまで夏王朝に服属しながらも、次第に国力を充実させつつあった殷(商)
の湯王である。賢臣伊尹の薦めによって、ついに意を決した湯王は、
来たれ、汝もろもろよ!ことごとく我が言を聞け。
我は敢えて乱にあぐるにあらず、夏の王に罪多ければ、天命じてこれを討たしむるなり。
と宣言を発して、桀王の誅殺を計る。かくて中国史上最初の「革命」
が行なわれたのである。
湯王を始祖とする殷王朝は、それからおよそ六百余年、二十八代目の後継者である紂王に至って亡びる。紂王もまた非凡な知力武勇の持ち主ではあったが、その彼から理性を奪い取って荒淫の生活に溺れさせたのは、彼が有蘇氏の国を征伐したときに貢物として送られてきた妲己という稀代の毒婦であった。紂王も彼女の歓心を買うためにあらん限りの力を尽くした。「酒池肉林」の遊びが企てられ、その淫楽に反対する人々には「炮烙の刑」が課せられる。王の暴虐を批判した補佐役の「三公」
のうち、九侯?鄂侯の二人は惨殺され、西伯は幽囚の身となった。その西伯が紂王を諫めたときの言葉として、詩経の中の詩篇の一つ「大雅?蕩の詩」に書き記されているのが、
殷鑒遠からず、夏后の世にあり。
(殷の王者の鑑とすべき先例は、さほど遠くに求めずとも、夏の后桀の時のことなるをお想い起こしなされましょう。)
という言葉である。しかし酒色に溺れ理性を失った紂王の心には、桀王の悲劇を顧みる余裕はない。三公についで微子?箕子?比干らの忠臣も諫言を進めるが、もちろん聞き入れられはしない。微子は亡命し、箕子は捕らわれ、比干は殺される。今や紂王の乱行?淫楽は益々つのるばかり。人民の怨嗟はやがて頂点に達し、臣事する諸侯の心も既に王から離れ去った。この天下の形勢を見て取ったのは、西伯の子、すなわち周の武王。かくて第二の「革命」が繰りかえされるのである。
その周はどうか。武王から数えて十代目の厲王に、またぞろ暴虐の兆しが見えた。側近の人々がこれを諫める。先に挙げた文王の言葉というのも、正確に言えば、このとき側近の人々が、御先祖の文王の言葉として引き合いに出し、暗に厲王を諷した歌の文句なのである。そして厲王の末年は、その暴虐に不満を爆発させた国人のクーデターによって、中国史最初の「共和」制の時代を現出しただけで、王朝滅亡の危機を切り抜けた。しかし厲王の乱行によって紡がれた因果の糸は、呪うべき魔性の女性襃じを出現させ、厲王の孫の幽王はその襃じに魅せられて愚行を重ね、結局は統一王朝としての周室、すなわち西周の命運に終止符を打ち、もう一度「歴史の繰りかえし」を証明することになるのである
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