雁書
果てしない空、そして、その下には目路のかぎりつづくかとみえる、海のような湖、また湖のまわりの大密林。人かげもない。だが今、とある丸木小屋から、その湖のほとりにさまよいでた男があった。手には弓矢、頭から毛皮をかぶり、髭はぼうぼうと顔をおおう。まるで山男だ。
だが、その眼のなかには、澄んだ不屈の輝きがある。頭の上をこうこうとなきわたる音に、彼はふっと空をみあげた。
「雁がもう渡るそうな。」
この人、名を蘇武という。
蘇武は漢の中郎将であった。武帝の天漢元年彼は使いとして、北のかた匈奴の国に赴いた。捕虜交換のためである。だが、匈奴の内紛にまきこまれて、使節団はすべて捕えられ、匈奴に降るか、それとも死ぬか、と脅かされた。そして、蘇武だけはついに降らなかったのである。彼は山腹の窖にとじこめられ、食を絶たれた。そのとき、彼は毛氈をかみ、雪をのんで飢えをしのいだという。蘇武が何日たっても死なないのを見た匈奴は、これを神かとおどろき、北海(バイカル湖)のほとりの人けもないところにやって、羊を飼わせることにした。だが与えられたのは牧羊ばかりであり、そしてこう言われたのである。
「牧羊が子をうんだら、国に帰してやろうさ。」
そこにあるのは空、森、水、きびしい冬、そして飢えだった。盗賊が彼の羊をぬすんでしまった。彼は野鼠を掘って飢えをしのいだ。それでも彼は匈奴に降ろうとはしなかった。いつかは漢に帰れる、と期待したからではない。ただ、降ろうとしなかったのだ。
この荒れはてた地の果てに流されて、もう何年の歳月がたったのか、それすらもおぼろであった。きびしい、単調な日々。しかし、ひろびろとした空を渡る雁は、蘇武にその故郷を想わせるのだ。‥‥
武帝が死に、つぎの昭帝の始元六年、漢の使いが匈奴のもとに来た。
漢使は、先頃匈奴に使いしたまま消息を絶った蘇武を還してほしい、と要求した。匈奴は、蘇武はもう死んだ、この世の者ではない、と答えた。真偽を押してたしかめるすべは、漢使にはなかった。だが、その夜のことである。さきに蘇武とともに来て、ここに留まっていた常恵というものが、漢使をたずねて、なにごとか教えた。つぎの会見のとき、漢使は言った。
「漢の天子が、上林苑で狩りをしておられたとき、一羽の雁をしとめられた。
ところが、その雁の足には帛がつけられ、帛にはこう書いてあったのだ。[蘇武は大沢の中にある]と。
蘇武が生きているのは明白だ。」
匈奴の単于(酋長)は驚きの色をみせ、なにか臣下とうちあわせた。そして言った。
「まえに言ったのはまちがいだった。蘇武は生きているそうだ。」
作り話は、巧くあたった。たちまち使者がバイカル湖めざして奔り、蘇武はつれもどされた。髪もひげもことごとく白く、破れた毛皮をまとった姿は牧人と変わりなかったが、その手には、漢の使者の手形である符節をしっかりとにぎっていた。
蘇武は国に帰ることになった。捕らえられ、北海のほとりで飢えや寒さとたたかううちに、いつか十九年がたっていた(?漢書?蘇武伝、?十八氏略?).
この故事がおこりとなって、手紙やおとずれのことを、?雁書?と言いならわすようになった。また雁札、雁信、雁帛などともいう。わが国でも古くからよく使われることばである。雁の玉章、かりの便り、かりの使い、雁の文章などとも言いならわす。
風が立ちそめるころ、大空をこうこうと鳴きわたる雁のむれは、たしかに何かをわたしたちのもとにもたらすのだ。そして、よし手紙ではないにしても、わたしたちの心のなにかを、ともに運んでゆくのである。
わたしたちの想いはそれを追って遠くのかなたへかけてゆく。
九月のそのはつかりの使いにもおもう心はきこえ来ぬかも。
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