玉石混淆
「玉石混淆」という言葉は、玉、すなわち硬玉や軟玉が、石といりまじっていることから、良いものとわるいもの、すぐれたものと劣ったもの、人でいえば賢愚がいりまじり、いっしょくたになっていることを指している。
晉の葛洪が著した「抱朴子」に、あらまし次のように言っているが、その中に見える「玉石混淆」の語がこの出典である。
「詩経とか書経とかいった正経(経典)が道義の大海であるとすれば、諸子百家(戦国時代の儒家以外の思想家)の書はそれを増し深める川の流れであり、方法はちがっても、同じく徳を進めることに変りはない。古人は才能の得がたいのを嘆いて、崑山の玉ではないからといって夜光の珠を棄てたり、聖人の書ではないからといって修養の助けになる言を見捨てたりはしなかった。
ところが漢魏以来、嘉言が多くでているのに、その品定めをする聖人があらわれず、見識の狭い連中は、上っ面のせまい所にとじこめられ、字義の解釈だけにとらわれて、奇異であるのを軽んじ、不要なものとして、小道にして見るに足りないとか、広博で人の考えを乱すとかいったりする。塵もつもれば山となり、多くの色が集まって目もあやな美しさをかもし出すことを知らないのだ。浅薄な詩賦をめでるかと思うと、意義深い子書(諸子の書)をかろんじ、ためになるりっぱな言葉はばかにして、そらぞらしい口先に感心する。
真と偽とがさかさまになり、玉と石とが混淆するというもので、雅楽も俗楽も同じに、美しい服もぼろ服も一緒に考えて皆のんびりしているのは、まことになげかわしい次第である。」(外篇、尚博)
葛洪は字は稚川といい、若い頃苦学して儒学を学んだが、神仙養生の道に非常に興味を持っていた。祖父のいとこである葛玄が仙人になって葛仙翁とよばれていたころから、彼は小葛仙翁とよばれ、自分では抱朴子といっていた。玄の弟子の鄭隠が玄の煉丹の秘術を受けついでいたので、彼は鄭隠についてその秘術を習得したのであった。
元帝が丞相だった時、その下で軍功をたてて関内候に封じられたが、その後、交趾に丹砂が出ると聞いて出かけ、羅浮山で丹を練っていた。
あるとき彼を尊敬していた広州の刺史トウ嶽に、「師を尋ねて遠くへ出かようと思う。日をきめて出発する」と言ってきたので、嶽がとるものもとりあえず、別れにかけつけてみると、葛洪は坐したまま昼になると眠るがごとくしてなくなった。顔色は生きているのと変わらず、死体も軟らかくて、死体を棺に入れようとするときには、ぬけがらを持ちあげるように軽かったといい、世間では尸解、つまり体をのこして仙人になってしまったのだといった。八十一歳であった。
葛洪の著には「抱朴子」内外篇七十巻や「神仙伝」などがあり、「抱朴子」は内篇には神仙の道を主として説き、外篇では政治、道徳などを論じている。
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