胡蝶の夢
戦国時代、宋の国の一隅に生きた荘子(荘周)は、古今独歩の哲人である。その高邁にして変幻の幽趣をたたえた哲学の全貌を語りつくすことは容易でないが、要約していえば、それは絶対自由の精神の世界―――――道への帰一を目標として、あらゆる相対的価値観念の否定超克を要請する。喩え現身はこの汚濁にみちた世俗の中にあろうとも、その精神において生死、是非、善悪、真偽、美醜、貧富、貴賤等々、時間空間のすべての対立と差別を止揚しつくした時には、玲瓏くもりなき道の世界が現出するであろう。かくて荘子は斉物の論?逍遙の遊、すなわち一切のものを斉しなみに視て、万物即一の絶対的究意的な世界に心を逍遙さすべしという考えかたを、数々の寓言に託して表現するが、中でもかの胡蝶の夢の物語はいみじくも香り高い出色の一文である。
いつのことだったか、私はうたた寝の夢の中で胡蝶となった。ひらひらと翅にまかせて大気の中を舞いあるくことの楽しさ。私は私が私であることも忘れてその楽しみに耽った。やがてふと目が覚める。私はやっぱり現身の私だ。
だが――この現身の私が夢の中であの胡蝶になったのだろうか、それともあのひらひらと楽しげに舞いあるいていた胡蝶が夢の中で私という人間になっているのだろうか。私が胡蝶なのか、胡蝶が私なのか。夢が現実なのか、現実が夢なのか……。
なるほど、さかしらの人間的分別をもってすれば、荘周と胡蝶とには歴とした区別があり、夢と現実とは明らかに相違する。荘周は荘周であって、胡蝶が荘周ではあり得ないし、現実は現実であって、夢が現実ではあり得ない。しかしこのような区別をつけて、それにかかずらうことこそが、実は人間のさかしらであり、また愚かしさでもあるのだ。?道?の世界、本体の世界の高処にたって見はるかすならば、よろずのものは生滅流転、きわまりなく果てしない変化――「物化」の中に在り、その一つ一つのものみなすべてが、それぞれに真であり実であるともいえよう。現実の相に執着すればこそ、荘周は荘周であり胡蝶は胡蝶であるというけれども、実在の世界にあっては荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であろう。現実もまた夢であり、夢もまた現実であろう。
なればこそ――とこの哲人は考える。「道」の世界に活きる者にとっては、そのいずれをも斉しなみに視て、在るがままに在ること、覚むれば荘周として生き、夢みれば胡蝶として舞い、与えられた今の姿において今を楽しむこと、現在の肯定、それが本当に「自由」に生きるということの意味ではあるまいか、と。
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