三十六計逃ぐるにしかず
三十六計逃ぐるにしかず? 全く判りきった文句のようだ。……が、そう簡単でもないらしい。ある本では、「はかりごとが多いが、逃げるべき時には逃げて、身を全うするのが最上の策ということ、転じて、困った時には逃げるのがいちばんよい方法だ、となる」とある。だが別の本では、?最上の策?までは同じでも、これは?卑怯者をそしる言葉だ?とあるのだ。こういうニュアンスは、どこからでてくるのだろう?
魏、呉、蜀漢、三国の争いも終って、天下が晉朝に統一されたのも、わずかに四十年、晉は内乱と匈奴の襲来にほろびて、その後は揚子江の南にうつり、北方の黄河流域には、北から、また西から、たくさんの異民族がなだれこんだ。こうして麻のように乱れた勢力分布も、しだいに南と北の二つに大きく分れ、それぞれの中での内紛と、南北両朝の争いが小止みなくつづくようになる。この南北朝のころのことだ。北方では鮮卑族の建てた魏が勢いをまし、南朝は斉の時代だった。宗の最後の皇帝だった順帝は、斉王蕭道成や王敬則らの圧力で、国を斉に譲らされ、やがて殺されたのである。
そして今、その王敬則は、叛軍をひきいて、成都?建康(今の南京)めざして攻めのぼっていた。彼は会稽の太守になっていたが、いまの皇帝とはながく争いをつづけ、息子たちも殺されていた。もう決着をつけるつもりだった。その途上だった。彼は皇帝側がとばしたうわさを耳にした。王敬則が逃げるらしい、というのだ。敬則は、吐きだすように言った。
「檀将軍の計略はかずかずあったというがな、逃げるのがいちばんの策だったそうな。
(檀公の三十六策は走るがこれ上計なりと)きさまらこそ、さっさと逃げるがよいわ……」
これにつづけて、「この語は、檀道済が魏軍をさけたのをそしったものである」と、注している書もある。
王敬則はやがて斉の軍にかこまれ、逃げることもならずに首をうたれたが、?三十六策……?のことばは残って、語りつたえられるようになった。だが、こう言われた檀道済とは、どんな人物だったのだろう。
檀道済は、前代の宗につかえた名将である。宋の基をきずいた武皇帝のころから軍事をあずかり、北方の大敵、魏の軍としばしば戦い、功をたててきた。そのころ魏の勢いはますます強く、燕国も涼国もその鉄騎のために攻めほろばされた。檀道済は、こういう敵を支えるために心をくだきつづけたのだ。彼は兵を用いることに老練であり、その生きているあいだは、宋の土地をあまり失わずしっかりと守っていた。名将檀道済の名はしだいに重きを加えていったが、その名をにくむものは、ひそかに彼をおとしいれる機会をうかがっていた。
前王の葬儀にからんで、讒言が王の耳につぎこまれた。戦国時代の国王は、じぶんの将軍の力が強大になるのをつねに恐れている。讒言は聞きいれられ、ついに檀道済は捕えられて、皇帝のまえに引き出された。
死罪は必定だった。そのとき、彼は頭巾をつかむと、それを床にたたきつけ、火のように燃える眼をかっと見ひらき、皇帝をにらんで言ったという。
「皇帝よ、この檀道済を殺すとは、みずからの手で万里の長城を壊すにひとしいですぞ!」
道済の死をききつたえると、魏軍はこおどりしてよろこんだ。はたして、宋の元嘉二十八年冬、魏王仏狸は百万と号する大軍をひきい、かたく凍った河をかけわたって、宋に侵入した。この鉄騎のまえに、宋軍はもろくも敗走し、魏軍はそれを追って宋の奥ふかく攻めこんだ。村々は強掠され、大人は斬り殺された。魏兵は槍の先に赤子をさして、それを振っておどったという。家々が焼きはらわれたため、春になって帰ってきた燕も、林の木に巣をつくった。建康の人々も先をあらそって避難した。……
このころ、皇帝は石頭城にいたが、城のやぐらからはるかに北をのぞんで、嘆いて言った。
「ああ、檀道済さえいたならば、あの胡軍にこうも踏みにじらせはしなかったろうに!」
?三十六策走るを上計?としたとそしられた檀道済とは、こういう人物であった。彼は宋の支柱であったようだし、じぶんでも、はっきりそう思っていたのだ。強大な魏軍と戦って、いったんは退くことが?上計?であったことも多いだろう。じぶんや兵力を?全うする?ことは、宋のためにも、たしかに必要であったろう。逃げるといっても、いろいろの意味があるのだ。だが、こうしてはじまったことわざは、ことわざとして、独立に生きはじめる。やがては、張扇につれて、「三十六計逃ぐるにしかずと、尻に帆かけてすたこら……」と語られるようになる。歴史というもの、よくこういう妙なことをするものだ。
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