食指動く
周の定王の二年(すなわち、魯の宣公四年、鄭の霊公元年)、楚の国の人が大きなスッポンを鄭の霊公に献上した。公子の子宋(字は子公)と子家(名は帰生)とは参内しようとしていた。そのとき、子公の食指、すなわち人指し指が動いた。そこで、食指の動くのを子家に見せて言った。
「いつも私の指がこうなるときは、きっと珍味が味わえるのですよ。」
参内してみると、料理人が大きなスッポンを料理しようとしているところだったので、二人は顔見合わせて思わず笑った。霊公がわけをたずねたので、子家が、実はこうこうしかじかと申し上げたのである。
さて、大夫、すなわち子公と子家にスッポンをごちそうする時になって、子公をお召しになった。というのは、子公に料理を食べさせまいとしたのである。ただ食指が動いたのを無効にしようという軽い気持でやったことだろうが、子公は怒って指を鼎に染め、つまり、ナベの中へ指をつっこんで、ペロッとなめるなり、さっさと退出してしまった。
霊公も怒って子公を殺そうと思ったが、子公も霊公に先んじようと思い、子家に相談をもちかけた。ところが子家は、
「畜生の老いたのでさえ、殺すのは気が引ける。
まして主君とあってみれば……」
と受けつけない。それならばと、子家を公に悪しざまに申し上げようとしたので、子家はおそれて子公のいうことをきいた。そうして夏、霊公は弑されたのである。
?左伝?に「《鄭の公子帰生が、その君である夷(霊公の名)を弑した》と《春秋》にあるのは、実際は子家が公を弑したのではないが、子家に子公を押し止める力がなかったからである。だから、有識者は、子家は仁ではあったが武でなく、真にすぐれていたとはいえない、といっている。すべて君を弑した場合、君の名があげてあるのは君が無道であり、臣の名があげてあるのは臣に罪があるのである。だから、この場合、君臣ともに良くなかったのだ」という意味のことを述べているが、ともかく、こと食事に関しての怨恨というものは大きい。
食指というのは人指し指のことで、孔穎達は五本の指を、巨指?食指?将指?無名指?小指とよび、足では大指が将指であるが、手では中指が将指であり、食指は食事だけに用いられるといっている。
?食指動く?という言葉は、食欲が起ることや、物事に対して欲望を感じることに用いられるし、また、ここにある?指を染む?という言葉は、物に指をつけて誉めてみることから、さらに、物事に着手するとか、分外の利益を受けることに用いられる。
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