前車の覆轍は後車の戒
前漢の第三代の皇帝を孝文皇帝という。文帝は高祖劉邦の庶子、第二代恵帝の弟で、諸侯の一人だったが、漢室の内紛のため、群臣に推されて帝位についた人。
そのころの名臣の一人に賈誼という逸材がいた。誼は洛陽の人、十八歳で詩や文に通じ、すでに並ぶ者がなかった。そこで河南の守呉公が、人物を見込んで門下に召致したところ、そのうわさを聞いた文帝が都に召し、誼が二十幾歳のとき、博士とした。
文帝は何しろ諸侯上がりであったため、強大な諸侯の中には、その命を重んじない者も出てきたので、帝は賈誼や陳平?周勃らの名臣を重用して、諸侯対策をはじめ、国政の刷新に力を入れた。賈誼はこの新帝を扶けて、政治を行うに当り、中国最古の国である夏以来、秦に至までの各国の興亡のあとに鑑み、諸侯の力をそぎ、民力を養い、政道を正すことについて、多くの献策を行ったが、その中に次のような文句がある。
「俗に『前の車のひっくり返ったわだちの跡は、後から行く車にとってよいいましめだ』(前車の覆轍は後車の戒)といわれています。
われわれが模範としている古き良き時代である夏?殷?周の三代は、いまや遠い昔とはなりましたが、そのよく治ったわけは明らかに知ることができます。
この先訓に学べない者は、聖人の教えに背く者で、こんな者が長続きする道理はありません。
さきの秦が早く亡びたのを、われわれは目のあたりに見ております。
われわれがもしこの愚を避けなければ、その前途も暗いものとなることは必定です。
国家の存亡?治乱のカギは一にかかって、ここにあるのです。」
文帝はこの言を聴き入れ、諸侯の地を削り、大国を小国に分割したほか、農業を奨励し、田租を免じ、極刑を廃止して、仁政を施した。さらに質素倹約の風を奨励し、官女が珠玉を飾ったり、裳裾を引きずって歩くことをも禁止したため、世の中はよく治り、太平と豊年が続き、全国の倉庫には穀物がギッシリとつまって、民は富み、官吏は仕事に精を出した。法の網はゆるやかだったが、国民は自重して法にふれることを恥じるという世になった。
戦国時代の七国の一つの魏の文侯が、あるとき、公乗不仁という下っ端役人に酒席のとりもちをさせて、大臣たちと酒宴を張った。文侯は言った。
「ただ飲んでも興味がないから、一つ、味わわずに飲んだ者に、罰として大杯で一杯のませることにしよう。」
大臣たちも賛成した。ところがその禁を文侯が真っ先に自分から破った。そこで不仁はさっそく、大杯を文侯にさし出した。文侯はチラッと見ただけで、どうしても受けとらない。家臣は、
「不仁、いいかげんにしろ。
わが君はいたくご酩酊だ。」
とやめさせようとした。すると、不仁は言った。
「前車の覆轍は後車の戒ということわざがあります。
前例に鑑みて、気をつけろといましめたものです。
家臣となることも、主君となることも、ともにやさしいことではありません。
いま君が法を設け、その法が守られないような先例を作られては、一体どういうことになるか、よくお考えになって、どうしても罰杯をお受け下さい。」
文侯も「なるほど」と思って、いさぎよくその大杯を受けてグッと干し、この不仁を以後重く用いたという。
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