大器晩成
三国鼎立の時代、魏に崔エンという有名な武将がいた。崔エン、字は李珪、山東省武城の人で、声といい、姿といい、おおようで大人の風格があった。ひげの長さは四尺もあり、武帝の信任はなみなみならぬものがあったというから、とにかく相当な人物だったらしい。
ところで、この崔エンの従弟に林という者がいた。見掛けはあまり利口そうでなかったためか、サッパリ名声が上らず、一族の者も馬鹿者あついして、テンデ軽視していた。しかし崔エンだけは、さすがに、その人物を見抜いていた。
「大きな鐘や、大きな鼎は、容易に鋳られるものではない。
それと同じように、大才能はそんなにたやすく出来上がるものでもない。
完成するまでには、どうしても時間がかかる。
林もこのように、大器晩成の組なのだろう。
見ていなさい。
ついには必ずや大した人物になるだろうから……。」
その言葉の通り、林はのちに三公となり、天子を補佐する大任を果たすような立派な人間になった。
もう一つの話。後漢の初めごろ、扶風茂陵(陝西省)に馬援という武将がいた。はじめは、前漢の天下をかすめとり、新という国を建てた王莽につかえたが、王莽が死んでのちは、後漢の光武帝につかえ、しばしば功を立て、伏波将軍に任ぜられた。伏波将軍とは前漢の武帝以来、大功のあった将軍にのみ授けられる地位である。そしてインドシナなどの叛乱を平らげ、各地に後漢の威光の及んだしるしの銅柱を建てた。晩年に匈奴の烏桓を征伐するため出征したが、光武帝の建武二十五年、不幸にして陣中に没した。時に齢六十三歳.この名将馬援がかつて兄の況の所を辞し、田舎の田畝を司る官吏になって赴任しようとして、況のところへあいさつに行った。況はいった。
「お前はいわゆる大器晩成型だ。
腕の立つ大工は、山から切り出したばかりの、削ってない材木は決して人に見せないが、自分の好きなように細工してしまう。
お前も自分の持ち味を生かし、時間をかければ大人物になるだろう。
自重してやれ。」
この忠告を守った馬援は、のちに果たして歴史に残る有名な人物となった。この話は「後漢書、馬援伝」に見えている。
さらに「老子」には、
《大方に隅無し、大器は晩成す》(大地には隅がない。大器は晩成する)という語がある。大人物は要するに、そんなに簡単に出来上るものではない。長い年月と、たゆまざる勉励によって、はじめて生れるものである。物事はやはり長い目で見るべきである……というのが、この大器晩成の趣旨である
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