蛇 足
楚の懐王六年のことである。楚は、令尹(楚の官名?宰相)の昭陽に兵を与えて魏を攻めさせた。昭陽は魏を破り、さらに兵を移動して斉を攻めようとした。斉の閔王はこれを憂慮し、たまたま秦の使者として来朝していた陳軫に、どうしたらよいか相談した。
「御心配には及びません。
私が参って、楚に戦いをやめさせましょう。」
陳軫は、ただちに楚軍におもむいて、陣中で昭陽と会見して言った。
「楚国の法についてお尋ねします。
敵軍を破り敵将を殺した者には、どのような恩賞が与えられますか?」
「上柱国に任命され、上級の爵位の珪(玉)を賜わります。」
「上柱国以上の高位高官がありますか?」
「令尹です。」
「いま、あなたは、すでに令尹です。
つまり、楚の最高の官位におられます。
そのあなたが斉をお伐ちになったところで、いたし方ないではありませんか。
たとえ話を申し上げましょう。
《ある人が、下僕たちに大杯にいっぱいの酒を与えましたところが、下僕たちが口々に言いました。
「数人でこれを飲んだら、たらふくは飲めない。
地面に蛇を画いて、一番先にできあがった者が、一人で飲むことにしようではないか」
「よかろう」
ということで、一斉に画きはじめましたが、やがて一人が、[俺の蛇が一番先に画けた]と言って、酒杯を挙げて立ち、[足だって画けるぞ]と、画きたしました。足を画き終わったところで、遅れて蛇を画きあげた者が、その酒杯を奪って飲み、
「蛇に足なんかあるものか。
おまえは、いま足を画いた。
これは蛇ではないぞ」
と申したということです。》
すでに、あなたは楚の大臣です。
そして魏を攻めて、魏軍を破り、その将軍を殺しました。
これ以上の功績はありません。
最高官位の上には、もはや加うべき官位はないのです。
それなのに、あなたは、また兵を移動して斉を攻撃しようとしておられます。
また勝利をおさめられましても、あなたの官爵は、現在以上にはなりません。
もし、敗れたならば、身は死し、官爵は奪われ、楚でとやかく謗られることでしょう。
これでは、蛇を画いて足まで画くようなものです。
戦いをやめて、斉に恩恵を施された方がよろしいでしょう。
そうすることが、得ることのできるものを十分に得て、しかも、失うことのない術というものです。」
昭陽は、なるほどとうなずいて、兵を収めて去った。
この話は、「史記」の?楚世家?と、「戦国策」の?斉策(閔王の項)?にある。両者の叙述に多少の異同があるが、大体は同じである。
本稿は史記によって書いた。蛇足――無用のことをする――という言葉は、この話に由来するのである。
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