輾転反側
一晩じゅうねがえりをうって苦しむ不眠の状態は誰しもよく経験するところ、そしてその状態を形容する「輾転反側」も誰しもが親しく口にし、また使いふるされた言葉であるが、しかも大変適切な形容詞として捨てがたい。文字にした場合のかっこうも、口にした場合の発音のぐわいも、不眠の夜を形容する言葉として、これほど適切な言葉はないであろう。
この言葉の起りは大変古い。というのは紀元前六世紀頃、つまり孔子が在世していた頃にすでに詩の手本として古典化されていた「詩経」の「国風」の篇の冒頭を飾る「関々たる雎鳩」にある言葉だからだ。この歌は聖人のほまれ高い周の文王とその妻のタイジを讃えたものだというような伝説がある。文王は紀元前千百年以上も昔の人である。こういう伝説は後人が勝手に作り出したものでもちろん信ずるに足りないが、「詩経」三百余篇の詩の中でも比較的古い時代の作と推定されているから、?輾転反側?も三千年あるいはそれに近い歴史を持つと考えてよい。
詩はまず、河の洲で鳴いている雎鳩という水鳥を歌う。それは関々とよい声で鳴いている。その美しく物静かな姿は窈窕たる乙女を思い起させる。よき配偶者として男子が求めるべき乙女はあの水鳥のように奥ゆかしく美しいというのである。第一章でそう歌い出して、次の第二章につづく。
参差たるアサザは
左右に流る
窈窕たる淑女は
寤寐にこれを求む
悠なるかな 悠なるかな
輾転反側す
参差として長短ふそろいな水草のアサザが左右に流れているというのは、水草摘みの有様を歌ったもので、「水草摘み」から「乙女を摘む」
つまり「乙女を求め手に入れよう」とする気持につながり、「寤寐にこれを求む」の句を引きおこすはたらきをする、というのが一般的な解釈である。この句を、先の「関々たる雎鳩」の句とともに、淑女の美しさや、淑女を求める気持を引きおこすためのたとえ(詩経ではこのようの詩作法を興という)とは解釈せず、眼前の実景――乙女が河辺で水草を摘んでおり、河の洲では水鳥が美しく鳴いている、そういう風景として素直に歌っていると解釈する仕方もあり、そうすれば詩全体が河辺にいる水草摘みの乙女への思慕を歌った詩ということになり、民謡風な感じが強くなる。どちらの解釈がよいかは、決定しがたい。詩経は細部の字句の解釈のみならず、詩の主旨そのものにいろいろの異説があって解釈に苦しむ。「関々たる雎鳩」のごとく最もポピュラーな篇であるが、この例にもれない。
ともあれ、これは女性を思い慕う恋歌であることには変りはない。
「寤寐」とは寝ても覚めてもの意である。「悠なるかな」とは思慕の情のつきないさまである。美わしき乙女は得られぬ。得られなければなおさら思いはつのって、「輾転反側」することとなる。
詩の末尾は、もし乙女を得られたならば琴瑟と鐘鼓とをかなでて、いつくしみ喜ばしめようと歌って結んである。
輾転反側した古代の男子の恋情を三千年後のわれわれにもよく理解できる。そして現代人もよく輾転反側するのだが、現代人の場合は恋情によってではなさそうだ。二十世紀はノイローゼの時代という。ノイローゼの顕著な病状の一つである「輾転反側する不眠症」は美しい乙女を摘みとったからといって、なかなかなおりそうにもない。
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