南風競わず
春秋戦国も末近い、周の霊王の十七年、魯の襄公の十八年(BC.555)のことであった。
鄭の子孔(公子嘉)は、強い野心に燃えていた。邪魔になる諸大夫を除いて、国権を専らにしようと企んだのである。
当時、諸侯は晉を盟主として、強暴斉に対する討伐の軍を起し、着々その包囲陣を圧縮しつつあった。そこで、その隙に、子孔は晉に叛き、南方の名門楚の軍隊をそそのかして野望を達成しようと考えた。使いを楚の令尹子庚(公子午)のもとへやって、この旨を告げさせたが、子庚は聴き入れなかった。ところが、楚の康王がそれを聴いて、子庚のところへ使者を遣わし、
「余が社稷を司ってより五年、軍隊を出したためしがない。
国民は余のことを、みずから安逸を貪って、先君の遺業を忘れていると思っているにちがいない。
大夫、何とか考えてくれよ。」
国家の利益を専一に心がけている子庚は、それを聴いて、深く嘆じたが、相手が国王のこと、使者に稽首してこう答えた。
「目下、諸侯は晉になびいておりますが、ともかく一つ当ってみましょう。
うまくいけば、あとから続いてください。
うまくいかなければ、軍隊を引いてくださるよう。
そうすれば、損害もないし、わが君にも恥とはならないでしょう。
子庚は軍隊を率いて、鄭国に討って出た。鄭伯の一統は斉の討伐に参加していて、子孔?子展?子西が留守を守っていた。子展?子西の二子は、子孔の腹の中を読んでいたので、本城の守備はおさおさ怠りがなかった。子庚の軍は各地を転戦して侵略をつづけたが、城下にはわずか二日間駐屯しただけで、引き揚げるていたらくであった。
魚歯山の麓を通るとき、大雨に遭い、真冬のこととて、人馬は凍え、軍はほとんど全滅のありさまになってしまった。
晉国でも、楚軍出動のうわさはひろまっていた。しかし、師コウ(字は子野、真の楽官)がいうには、
「なあに、大したことはあるまい。
わたしがしばしば南方の歌、北方の歌をうたうのに、南方の音調は微弱で、ちっとも生気がない。
(南風競わずして、死声多し。)
楚軍はきっと失敗するだろう。」
董叔(暦教家)も、
「歳廻り、月廻り、大抵は西北方に当っておる。
南軍は、時を得ておらぬ、必ずや不成功に終わるであろう。」
叔教(政治家)も、
「すべては君の徳にあるものだ。」
三人とも、同じような予言をしたわけである。
これは、「左伝」の襄公十八年の条にある話であるが、「日本外史」
では、南朝(吉野朝廷)の勢いの衰えたことに借用しているし、一般に、勢いの振るわないことによく使うことばである。
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