不倶戴天の讎
―――父の讎は与に共に天を戴かず、兄弟の讎は兵に反らず、交遊の讎は国を同じくせず。
(父の仇と共に同じ天を戴くことは出来ない、従って同じ世に生かしてはおけず、必ず殺すべきである。兄弟の仇は、家に帰ってから武器を取って来るなどの暇は無い、いつも武器を携えていて、直ちに殺すべきである。友人の仇は国を同じくして住むことは出来ない、やはり殺すべきである。)
以上は「礼記」の「曲礼」上の言葉であるが、一読して解る通り、敵討ちの礼を説いている。一口に礼儀作法と言っても、一々挙げれば際限がないほどあるわけだが、敵討ちの礼まで説くとは御丁寧である。もっとも「曲礼」とは、委曲の礼、つまりくだくだしい礼を言うのだから、その中に敵討ちの礼があるのは当然なのかも知れない。
ところでこの敵討ちの礼であるが、仇は皆殺さなければならない。とても父?兄弟?朋友の仇は許すことが出来ないと見える。それにしても同じ「曲礼」上にある、
―――凡そ人の子たる礼、冬は温かにして夏は清しくし、昏に定めて晨に省みる。醜夷に在りて争わず。
(人の子たるもの、冬は父母の身を暖かにし、夏は涼しくする。また、夜は父母が安眠できるようにし、朝に安否を見舞うようにする。友人と争うと累が父母に波及するかも知れないから、争わないようにするのである。)
と言うような、おっとりとしたのとは違って、随分物騒な話である。
しかし、よく考えてみると、この二つの礼に共通した考えがある。それは儒教の方で説いているのだが、人と人との永久不変の関係、君臣?父子?夫婦?兄弟?朋友の五つの関係を絶対視している考えである。
―――男女、行媒あるに非ざれば、名を相知らず、幣を受くるに非ざれば、交らず、親しまず。
(男女は、媒酌がない限り、異性の名前などは覚えてはいけない。また結納がはっきりしないうちは、付き合ってもいけないし、馴染んでもいけない。)
かくの如く男女関係も厳然としている、今日の若い男女から見れば、お伽噺の世界のこと位にしか思えないだろう。しかし、古代の氏族制社会の支配階級の間では、かかることが本当に信じられていたのだ。そこでは例の五つの人間関係、朋友を除いては全て縦の従属関係を、是非とも維持しなければならなかった。そこに礼が生まれ、敵討ちの礼まで生まれてくる理由があった。
礼は秩序を維持するための規則であるが、今日の法律に当るものと、道徳に当るものに二大別出来よう。古代社会に於いてはその二つが、まだ未分化の状態にあった。ともに礼として意識されていたと思われる。
だが、「『礼記』」の礼は後者の道徳の方に当り、当時の風俗習慣を述べたものと言える。敵討ちもその一つであったわけである。
「不倶戴天の讎」は冒頭に引用した文から出て、とても許しておけない奴という意に用いられる
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