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日语阅读:阿Q正伝

来源: 2017-12-23 11:02

   第一章 序

  私が阿Qのために正伝を書こうという気になったのは、もう一年や二年のことではない。しかし、書こう書こうと思いながら、つい気が迷うのである。それというのも、私が「その言を後世に伝うる」底の人ではないからである。なぜと言うに、昔から不朽の筆は不朽の人を伝すべきものと決まっている。さればこそ人は文によって伝わり、文は人によって伝わる‥‥‥というわけだが、そうなるといったい誰が誰によって伝わるのかが、だんだん分からなくなってくる。そしてしまいに、私が阿Qの伝を書く気になったことに思い至ると、なんだか自分が物の怪につかれているような気がするのである。

  しかしともかく、この不朽ならぬ速朽の文章を書くことに決めて、筆をとったのであるが、筆をとってみると、たちまち、いろいろの困難にぶつかった。第一は、文章の名目ということである。孔子は「名正しからざれば言順(したが)わず」と言っている。これはむろん、きわめて注意を要する点だ。伝の名目はすこぶる多い。列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝‥‥‥だが惜しいかな、どれもぴったりしない。「列伝」とすればどうか。この文章は、多くのえらい人たちと一緒に「正史」の中に並べられるわけではない。「自伝」はどうか。私自身は阿Qではないのだ。「外伝」といえば「内伝」がなければならぬし、では「内伝」としようにも、阿Qは決して神仙ではないのだ。「別伝」はどうか。阿Qは、まだ大総統から国士館へ「本伝」を立てろという告論が下ってはいない‥‥‥むろん、英国の正史に「博徒列伝」がないにもかかわらず、文豪ディッケンズは「博徒別伝」なる書物を著したというような例はあるが、これは文豪だからかまわないので、私などにまねのできることではない。次は「家伝」だが、私は阿Qと同族であるかどうか知らぬし、彼の子孫から依頼を受けてもいない。また「小伝」にしても、阿Qにほかに「大伝」があるわけではない。これを要するに、この一偏はやはり「本伝」というべきであろうが、私の文章の観点からすれば、文体が下卑ていて「車引きや行商人」の文章だから、とても「本伝」などと口幅たいことは言えない。そこで三教九流の仲間にも入れてもらえぬ小説家(注)の使う「閑話はさておき正伝にかえりまして」という決り文句の中から「正伝」の二字を引き出してきて題目とする次第である。これも古人の撰する「書法正伝」の「正伝」と字づらがまぎらわしいきらいはあるが、そこまで気を使ってはおれぬのである。

  第二に、伝を立てる場合は、通常、最初に「某、字(あざな)は某、某地の人なり」とすべきだが、私は、阿Qの姓が何というか実は知らぬのである。一度彼の姓は趙らしくみえたことがあったが、もうその翌日には怪しくなった。それは、趙旦那の息子が秀才の試験に合格したときのことである。その知らせが、鉦(かね)をガンガンたたいて、村へやって来たとき、おりから黄酒を二、三杯ひっかけていた阿Qは、踊りあがって喜んだ。おかげで自分まで鼻が高い、と彼は言うのである。なぜならば、彼はもともと趙旦那とは同族であって、しかも仔細に系図をたどれば、彼の方が秀才より三代上に当たるはずだから。その場にいてこの話を聞いた連中は、ひそかに舌を巻いて、少なからず畏敬の念を抱いたものである。ところが翌日になると、組頭が来て阿Qを趙旦那のところへ引っ張っていった。旦那は、阿Qの顔を見るなり、満面に朱を注いで怒鳴った。

  「阿Q、この極道者め。俺がお前と同族だなどと、お前言ったのか」

  阿Qは口を開かなかった。

  趙旦那はますますいきり立って、二、三歩前へ踏み出して「でたらめをぬかすな。俺に、お前みたいな同族が、あってたまるか。お前が趙なものか」

  阿Qは口を開かずに、後へ引こうとした。趙旦那は飛びかかって、平手打ちを食らわせた。

  「お前が趙であってたまるか‥‥‥お前みたいな奴が、どこを押せば趙と言えるんだ」

  阿Qは、自分の姓が確かに趙であるとは一言も抗弁しなかった。左頬をさすりながら、組頭に連れられて退出しただけであった。外へ出てから、組頭にも油をしぼられて、心付けを二百文ふんだくられた。その噂を聞いた連中は、口々に、阿Qはあまりでたらめなことを言うから、自分から殴られるような目に会うのだ。彼はおそらく趙という姓ではあるまい、たといほんとうは趙という姓であったにしろ、れっきとした趙旦那がいられるかぎり、めったなことは口に出して言うものではない、と評しあった。それから後は、もう誰も彼の氏素性を問題にするものはなくなってしまった。で、私も結局、阿Qがなんという姓であるか分からずにしまったのである。

  第三に、阿Qの名はどう書くかも、私には分かっていない。生きていた頃は、人々はみな阿Queiと呼んでいた。死んでからは、もう阿Queiの名を口にするものさえいなくなった。いわんや「竹帛に著す」などという特志家があるわけはない。もし「竹帛に著す」ということを言うならば、この文章がそもそもの最初であろう。そこで発端にこの難関にぶつかったわけである。かつて、私は、いろいろ考えて見た。阿Queiというのは「阿桂」だろうか、それとも「阿貴」だろうか。もし彼に「月亭」という字があるとか、八月に誕生祝をやったことがあるとすれば、疑いもなく「阿桂」のはずだ。しかし、彼には字はないし‥‥‥実際はあるのかもしれない。ただ、誰も知らないだけかもしれないが‥‥‥また、誕生日に名士の賀文を乞う廻状を配ったこともない。「阿桂」と書くのは独断である。もしまた彼に「阿富」と呼ぶ令兄か令弟があったとすれば、疑いもなく「阿貴」の方である。ところが彼は、一人っきりであるから、「阿貴」と書くのも、証拠がない。そのほかのQueiと発音する難しい字では、なおさらぴったりしない。以前に私は、趙旦那の息子の秀才先生に問い合わせて見た。ところが驚くことに、この物識りの先生でさえ、皆目見当がつかなかった。ただ、そのときの結論によると、陳独秀が「新青年」を発行して西洋文学を提唱したために、国粋が滅んで、調べがつかなくなった、ということであった。私は、最後の手段として、ある同郷の友人に頼んで、阿 Queiの犯罪調書を調べてもらうことにした。八ヶ月たってやっと返事がきたが、調書の中には阿Queiに似た発音の人間はいないということであった。実際にないのか、それとも調べなかったのか、どちらともはっきりしないが、ともかく、これで手がかりはなくなったわけである。おそらく注音符号(一種のカナ)はまだ一般に通用しまいから、やむを得ず「西洋文字」を用い、英国流の綴り方で阿Queiと書き、略して阿Qとする。どうも「新青年」に追従する様で、我ながら感服せぬが、しかし秀才先生さえ知らぬものを、私に何の方法があろう。

  第四は、阿Qの出身地である。もし彼の姓が趙なら、郡中の名家を称したがる当今のしきたりに従って「郡名百家姓」の注解通りに「隴西天水の人なり」としていいわけである。ただ惜しいかな、この姓があてにならぬので、それで出身地も即断は出来かねる。彼は未荘に長く住んではいたが、しょっちゅうほかへも行っていたから、未荘の人であるとも言えない。だから「未荘の人なり」とするのは、やはり史法にもとることになる。

  私が、いささか自ら慰めうる点は、片方の「阿」の字だけは、きわめて正確なことである。これだけは断じて附会や仮借の欠点がない。どんな大家に叱正を乞うても大丈夫である。そのほかの諸点に至っては、すべて浅学のよく究明するところではない。幸い「歴史癖と考証癖」を有する胡適先生の門人たちが、将来あるいは数多くの新事実を発見されんことを希望するだけである。もっとも、私のこの「阿Q正伝」は、その頃には消滅しているかも知れない。

  以上、これで序文ということに願いたい。

  第二章 勝利の記録

  阿Qは、姓名や出身地がはっきりしないばかりでなく、以前の「行状」さえはっきりしていない。未荘の人々の阿Qに対する関係は、仕事に雇うことと、からかうこととに限られていたから、彼の「行状」などに注意を払うことはなかった。また阿Q自身も、口にしたことがなかった。たまに、ほかのものと口論するときなどに、目をむいて、こんな風に言うくらいであった。

  「おいら、昔は‥‥‥おめえなんかより、ずっと偉かったんだぞ。おめえなんか、なんだい」

  阿Qには家がなかった。未荘の地蔵堂の中に住んでいた。一定の職業もなかった。日雇に雇われて回り、麦を刈れと言われれば麦を刈るし、米をつけといわれれば米をつくし、舟をこげと言われれば舟をこいだ。仕事が長引くときは、その時々の主人の家に寝泊りすることもあったが、終わればすぐ帰された。それゆえ、人々は忙しくなると阿Qを思い出したが、その思い出すのは仕事をさせることで、「行状」のことではなかった。ひまになると、阿Qそのものさえ忘れてしまうから、まして「行状」どころではない。たった一度、ある老人が「阿Qはよく働く」とほめたことがあった。そのとき阿Qは、上半身裸で、のっそりと、その人の前に突っ立っていた。この言葉が本気で言われたものか、それとも皮肉なのか、他のものには見当がつかなかった。しかし、阿Qは、大満足であった。

  阿Qはまた、自尊心が強かった。未荘の住民どもは、一人として彼の眼中になかった。はなはだしきは、二人の「文童」に対してさえ、彼は歯牙にかけぬ風のところがあった。そもそも「文童」とは、将来おそらくは秀才に変ずべきものである。趙旦那と銭旦那が住民の深い尊敬を受けているのも、金持ちであること以外に、文童の父親であるのがその原因である。しかるに阿Qだけは、精神的にとくに尊敬を払う態度を示さなかった。おいらのせがれならもっと偉くなるさ、と彼は考えていたのである。加うるに彼は、城内へも何回か行っているので、自尊心の強くなるのも当然であった。しかし一方、城内の連中をも彼は軽蔑していた。例えば、長さ三尺幅三寸の板でできた腰掛を、未荘では「長とん(ちゃんとん)」と呼んでおり、彼も「長とん(ちゃんとん)」と呼んだが、城内の連中は「条とん(てぃあおとん)」と呼んでいる。これはまちがっている、おかしな話だ、と彼は考えた。鯛(たい)のから揚げに、未荘では長さ五厘ほどの葱を添えるが、城内では葱のみじん切りを添える。これもまちがっている、おかしな話だ、と彼は考えた。ところで未荘の奴らは、世間知らずのおかしな田舎ものときているから、城内の魚のから揚げさえ見てやしないのだ。

  阿Qは「むかしは偉かった」し、見識も高いし、しかも「よく働く」から、本来なら「完璧な人物」と称して差し支えないほどであるが、惜しいことに、彼には体質上に若干の欠点があった。第一の悩みの種は、彼の頭の皮膚が数カ所、いつからともなく、おできのために禿げていることである。これも彼の体の一部には違いないが、阿Qの意見では、こればかりは自慢にならぬらしかった。その証拠には、彼は「禿」という言葉、および一切の「禿」に近い発音が嫌いであった。後になると、それが次第に広がって「光る」も禁物、「明るい」も禁物になった。さらに後になると「ランプ」や「蟷螂」まで禁物になった。その禁を犯すものがあると、故意であろうがなかろうが、阿Qは禿まで真っ赤にして怒り出すのである。相手によって、もし口下手なやつなら罵倒するし、弱そうなやつなら突っかかっていった。ところが、どうしたことか、とかく阿Qの方がやられてしまうほうが多かった。そこで彼は、徐々に方針を変えて、多くの場合、睨み付けてやることにした。

  ところが、阿Qが睨みつけ主義を採用したとなると、未荘の暇人どもは、よけい喜んで彼をからかった。阿Qの顔さえ見れば、わざとびっくりしたふりをして、こう言うのだ。

  「ほほう、明るくなったぞ」

  阿Qは、きまって腹を立てる。彼は睨みつけてやる。

  「なんだ、ランプがあったのか」彼らは一向平気である。

  阿Qは困って、別の仕返しの文句を探さなければならない。

  「おめえなんかには‥‥‥」彼は、彼の頭上にあるのは高尚な、立派な禿であって、当たり前の禿でないことを考えていたのである。しかし、前に述べたごとく、阿Qは見識が高いから、それを言い出すと「禁忌」に触れることを早くも見て取って、それきり言葉を途切らせたのである。

  ところが相手は、それで止めずに、なおもからんできた。とうとう殴り合いになった。阿Qは形式的には負けた。赤毛の辮髪をつかまえられて、壁へコツンコツンと頭をぶつけられた。相手はそれでやっと満足して、意気揚々と引き上げる。阿Qは、しばらく立って考えていた。「せがれにやられたようなものだ。今の世の中はさかさまだ‥‥‥」と彼はひそかに思った。そこで彼は満足して、意気揚々と引き上げた。

  阿Qは、心に考えていることを、後にはいつも口に出していってしまう。そこで、阿Qをからかう連中の全部に、彼のこの精神的勝利法の存在が知られてしまった。それからは、彼の赤毛の辮髪を引っ張るときは、あらかじめこう宣告するようになった。

  「阿Q、これはせがれが親を殴るんじゃないぞ。人間様が畜生を殴るんだぞ。自分で言ってみろ、人間様が畜生を殴るんだと」

  阿Qは、両手で辮髪の根元を押さえて、頭をゆがめて言った。

  「虫けらを殴るんさ。これでいいだろう。おいら、虫けらさ‥‥‥もう放してくれ」

  たとい虫けらであろうと、相手は容易に放してはくれない。今まで通り、近所に場所を見つけて、コツンコツン五、六回食らわせて、今度こそ阿Qも参ったろうと思って、初めて満足して、意気揚々と引き上げる。ところが阿Qの方でも、ものの十秒もたたずに、やはり満足して、意気揚々と引き上げる。彼は、われこそ自分を軽蔑できる第一人者なりと考えるのである。「自分を軽蔑できる」ということを省けば、残るのは「第一人者」だ。状元(科挙の最高階の試験に一番で及第した者)だって「第一人者」じゃないか。「おめえなんか、何だい」だ。

  阿Qは、かくも種々の妙計によって怨敵を征服した後、朗らかになって居酒屋へ飛び込み、ニ、三倍引っ掛け、そこでまたふざけたり言いあったりして、またも意気揚々となって、朗らかに地蔵堂へ戻ると、ごろっと大の字になって寝てしまうのである。もし金があると、彼は賭博へ行く。ひとかたまりの人間が地面に蹲っていて、阿Qは、汗みずくで、そのあいだに割り込んでいる。かけ声は彼のが一番高い。

  「青竜(ちんろん)へ四百」

  「そら‥‥‥開ける‥‥‥ぞっ」胴元が壷の蓋を取る。これも汗みずくでうたっている。「天門(てんめん)だ‥‥‥角は戻し、人(れん)と穿堂(ちょわんたん)はまけ‥‥‥阿Qの銭はもらったぞ‥‥‥」

  「穿堂へ百‥‥‥百五十」

  阿Qの銅銭は、このようなうたい声のなかで、徐々に別の汗みずくの人間の懐へ流れてゆく。しまいに彼は否応なく人垣から押し出されてしまう。そして人垣の後ろで、他人の勝負を気にしながら、しまいまで見ている。それから未練そうに地蔵堂へ戻る。翌日は、瞼を腫らして仕事に出て行くのであった。

  ところが「人間万事、塞翁が馬」だ。阿Qは不幸にして一度勝った。しかし彼はほとんど失敗したのである。

  それは未荘の祭りの夜であった。その夜は吉例の芝居がかかり、舞台の付近には吉例によって野天の賭場がたくさん開かれた。芝居の鉦太鼓も、阿Qの耳には、十里も遠方のように響いた。彼には胴元のうたう声だけが聞こえていた。彼は勝ちつづけた。銅貨が小銀貨に変わり、小銀貨が大銀貨に変わり、大銀貨の山ができた。彼は有頂天であった。

  「天門に二両」

  誰と誰とが、何のために喧嘩をはじめたのか、彼にはわからなかった。怒鳴る声、殴る音、足を踏み鳴らす音、無茶苦茶な混乱がしばらく続いた。ようやく彼が起き上がってみたときには、賭場もなければ、人もいなかった。体中が痛むようだ。どうやら殴られたり蹴られたりしたらしい。数人のものが、不思議そうに彼の方を見ている。魂が抜けたようになって、彼は地蔵堂へ戻った。心が落ち着くと、彼の銀貨の山が失われたことに気がついた。祭礼あてこみの賭場は、よそ者が多い。尻の持って行きどころはないのだ。

  真っ白い、キラキラ光る銀貨の山、しかも彼のものである銀貨の山‥‥‥それが失われた。せがれに持って行かれたのだ、と考えて見ても面白くない。自分は虫けらなんだ、と言ってみても、やはり面白くない。こんどばかりは、彼も失敗の苦痛を嘗めなければならなかった。

  だが、彼はたちまち、敗北を変じて勝利となすことができた。彼は右手を上げて、力いっぱい自分の横面を二つ三つ続けざまに殴りつけた。飛び上がるように痛かった。殴った後は、心が落ち着いて、殴ったのは自分であり、殴られたのは別の自分のような気がしてきた。まもなく、他人を殴ったと同じような‥‥‥痛いことはまだ痛かったが‥‥‥気持ちになった。満足して、意気揚々と彼は横になった。

  彼はぐっすり睡った。

  第三章 続勝利の記録

  しかし、阿Qは、常に勝利は占めていたものの、有名になったのは、趙旦那に殴られて以来のことである。

  彼は、組頭に二百文心付けを払って、プンプンして横になったが、そのあとで、考えた。

  「いまの世の中はでたらめだ。倅が親を殴る‥‥‥」と、たちまち、趙旦那の威風堂々たる姿が目に浮かんだ。しかもその趙旦那が、今では彼の倅である。どうやら彼は得意になってきた。そして、起きあがって「若後家の墓参り」を口ずさみながら、居酒屋へ出かけていった。そのときの彼の気持ちでは、趙旦那は、人よりも一段高尚な人物であった。

  不思議なことに、それ以来、人々は彼にたいして急に特別の尊敬を払うようにみえた。阿Qとしては、それは彼が趙旦那の親父だからだと考えたかもしれないが、実際は、そうではなかった。未荘では、通常、阿七が阿八を殴ったとか、李四が張三を殴ったというようなことは、一向珍しくはない。ただ、趙旦那のような有名な人と関係のある場合にはじめて、彼らの噂にのぼるのである。ひとたび噂にのぼると、殴った方が有名な人だから、殴られた方もそれにつれて有名になる。むろん、非が阿Qの方にあることは言うまでもない。何故か。趙旦那に非のあろうはずがないからだ。では、非がありながら、なぜ人々は彼をとくべつ尊敬するのか。これは難しい問題である。つらつら考察するに、阿Qが趙旦那と同族だと称するからには、たとえ殴られたにしろ、ひょっとすると幾分ほんとうかも知れぬという疑いがあって、当たらず触らずに尊敬しておいた方が無難だという気持ちからであったかもしれない。そうでなければ、孔子廟に備えられた太牢(牛)のように、豚や羊と同じただの畜生でありながら、聖人が箸をつけられたがために、先儒たちも妄動できない、というような関係であったかもしれない。

  その後は多年、ともかく阿Qは得意であった。

  ある年の春、彼はほろ酔い機嫌で街を歩いていた。すると、陽だまりの塀ぎわで、ひげの王が肌脱ぎになって虱を取っているのがめについた。それを見ると、彼も急に体が痒くなった。このひげの王というのは、禿があるのとひげが濃いのとで、人々から「ひげの禿の王」と呼ばれていたが、阿Qだけは「禿」を抜いて呼び、しかも、非常に軽蔑していた。阿Qの意見では、禿は奇とするに足りないが、この頬から頤(おとがい)にかけてのひげだけは、実に奇妙千万で、見られたザマじゃない、というのである。そこで阿Qは、彼と並んで腰をおろした。これがほかのひま人連だと、阿Qはうかつに近寄りはしない。このひげの王だけは、そばへ寄っても怖くはなかった。むしろ、彼が腰をおろしてやったのは、相手が光栄に思っていいくらいなものである。

  阿Qも、ぼろ袷を脱いで、ひっくり返してみた。洗い立てのせいか、それとも見方がぞんざいのせいか、長いことかかって三、四匹つかまえただけであった。ひげの王はと見ると、一匹また一匹、二匹また三匹、後から後から口へ入れて、ピッピッと噛んでいる。

  最初、阿Qはがっかりした。そのうちに、癪にさわってきた。見られたザマじゃない。ひげの王でもあんなに多いのに、自分にはちっともいない。これでは面目丸つぶれだ。一、二匹でかい奴をつかまえたいと焦るが、さっぱり見つからない。やっと中くらいのを一匹つかまえて、いまいましそうに厚い唇のなかへ押し込んで、懸命に咬むと、ピッと音がしたが、ひげの王ほど高い音でなかった。

  彼は、禿のひとつひとつをまっ赤にして、着物を地面へ叩きつけるなり、ペッと唾を吐いてどなった。

  「毛虫野郎め!」

  「禿犬、そりゃ誰のことだ」ひげの王は、さげすむように眼をあげて言った。

  このごろでは、阿Qは、人からも尊敬もされるし、自分でもお高くとまっていたが、それでも、喧嘩ばやいひま人連の前へ出ると、おずおずしてしまう。ところが今日に限って、馬鹿に元気がよかった。こんなひげだらけの野郎に、言いたい放題を言わせておけるか。

  「きくだけ、やぼよ」彼は立ちあがると、両手を腰にあてて言った。

  「揉んでもらいたいのか」ひげの王も、立ちあがって、着物をきながら言った。

  阿Qは、彼が逃げるのだと思った。いきなり飛びついて、拳骨をふりあげた。その拳骨が相手へ届かぬ先に、相手の手に握られてしまった。引かれる拍子に、阿Qはよろよろとよろめいた。たちまち辮髪をひげの王につかまれ、塀のところへ連れて行かれて、例の調子でこずかれた。

  「君子は口は出すが手は出さず」阿Qは、頭をゆがめて言った。

  ひげの王は君子ではないらしかった。一向構わずに、連続五回小突いて、それから力いっぱい突き飛ばしたので、阿Qは一間も前にのめらされた。ひげの王は、ようやく満足して立ち去った。

  阿Qの記憶では、おそらくこれは最近第一の屈辱事件であった。なぜならば、ひげの王は、そのひげ深いという欠点のために、これまで彼から馬鹿にされこそすれ、彼を馬鹿にしたことはなく、いわんや手出しなどしたことはなかったからである。しかるに、いまや彼に向かって手を出したのである。実に意外なことだ。まさか世間で噂するように、皇帝が科挙を廃止されて、秀才も挙人もなくなったので、それで趙家の威風が地に墜ちて、従って彼までも馬鹿にされるようになったのだろうか。

  阿Qは途方に暮れて立っていた。

  向こうから男がやってくる。阿Qの敵がまた現れたのだ。これも阿Qの大きらいなひとり、つまり銭旦那の長男である。この男は、以前、城内へ行って、西洋の学校へはいった。それから、どういうわけか、また日本へ行った。半年たって帰ってきたときには、足も西洋人のようにまっすぐになっていたし、辮髪もなくなっていた。そのため、母親は十数回泣きわめいたし、細君は三回井戸へ飛び込んだ。そのうちに、母親はこう言ってふれ廻るようになった。「あの辮髪は、悪者のために、酒で酔いつぶれたところを切られてしまったんです。えらいお役人になれるはずでしたが、今じゃ髪が伸びるまでお預けです」しかし阿Qは、その話を信用しなかった。あくまで「にせ毛唐」と呼び、また「毛唐の手先」と呼んでいた。彼に出会うと、必ず腹の中でひそかに罵倒した。

  ことに阿Qが「深刻に憎悪」したのは、カツラの辮髪であった。辮髪がカツラであるに至っては、人間としての資格がゼロである。彼の細君が四回目の飛込みをやらないのは、これもよからぬ女に違いない。

  その「にせ毛唐」が近づいてきた。

  「坊主頭、驢馬(ろば)の‥‥‥」いつもなら阿Qは、腹のなかで悪口を言うだけで、口に出して言わなかったが、あいにく、むしゃくしゃの最中で、仕返しをしたくてうずうずしていた際とて、ついうっかり低い声が口から漏れてしまった。

  意外や、この「坊主頭」は、ニス塗りのステッキ‥‥‥つまり阿Qの言う葬い棒‥‥‥を携えていて、ずかずかと彼の方へ寄ってきた。その瞬間、阿Qは打たれるものと覚悟を決めた。全身の筋肉をこわばらせて、肩ばかり突き出して待っていると、案の定、パンと音がして、確かに頭をやられたような気がした。

  「あいつのことなんで」阿Qは、そばにいた子供を指差して、言い訳を言った。

  パン、パン、パン!

  阿Qの記憶において、おそらくこれが最近第二の屈辱事件であった。さいわい、パンパンの音がしてからは、もう彼はそれで事件が落着したような気がして、むしろさばさばした。しかも「忘却」という祖先伝来の宝物が効果を現しはじめた。ゆっくり歩いて、居酒屋の門口まできたときには、もう彼は幾分上機嫌にさえなっていた。

  すると向こうから、静修庵の若い尼さんがやってきた。阿Qは普段でも尼さんを見ると、唾を吐きかけたくなる。まして今は屈辱事件の直後である。記憶が甦ってきて、彼は敵愾心にもえた。

  「俺は今日、どうも日が悪いと思ったら、やっぱりおまえの面を見たせいだったな」と彼は思った。

  彼は尼さんの行く手に立ちはだかって、思い切り唾を吐いた。

  「カッ、ペッ!」

  尼さんは、見向きもしないで、首を垂れたまま歩いていく。阿Qは、ずかずか歩み寄って、突然手を伸ばして、尼さんの剃りたての頭を撫でた。そして、ゲラゲラ笑いながら、「坊主頭、早く帰れ、和尚さんがまっとるぞ」

  「なにさ、手出しなんかして‥‥‥」尼さんは、顔じゅう赤くなって、そう言いながら足を早めた。

  居酒屋にいた連中が、どっと笑った。阿Qは、自分の手柄が賞賛を博したので、ますます意気揚揚となった。

  「和尚ならいいが、おいらが手を出しちゃいけねえかよ」彼は、尼さんの頬をつねりあげた。

  居酒屋にいた連中が、どっと笑った。阿Qは得意になり、この見物人たちに満足を与えるために、もう一度力を入れてぎゅっとつねった。そして、ようやく手を放した。

  この一戦によって、彼はひげの王のことをきれいに忘れた。にせ毛唐のことも忘れた。今日の一切の「不摺工纬黏蛉·盲郡瑜Δ蕷荬摔胜盲俊¥饯紊稀⒉凰甲hなことに、全身がパンパンやられたときよりも軽くなって、ふらふらして今にも舞い上がりそうな気がした。

  「跡取なしの阿Q!」遠くの方から尼さんの半分泣いている声が聞こえる。

  「ハッハッハ」阿Qは、十分の得意さをもって笑った。

  「ハッハッハ」居酒屋にいた連中も、九分の得意さをもって笑った。

  第四章 恋愛の悲劇

  一説にいう。ある種の勝利者は、敵が虎のごとく鷹のごとくなることを願い、かくてはじめて勝利の喜びを感ずる。もし羊やヒヨコのようだと、むしろ勝利の味気なさを感ずるのだ。また、ある種の勝利者は、一切のものを征服した後に、死ぬものは死に絶え、降伏するものは降伏して「臣某恐惶恐懼頓首頓首」となった暁には、彼にはもはや敵もなく、対者もなく、友もなく、自分だけが上位にいて、ただ一人、ぽつんとして、うら淋しく、取り残され、かえって勝利の悲哀を感ずるという。しかしながら、われらの阿Qは、そんな弱虫ではない。彼は永遠に得意である。これまた、中国の精神文明が世界に冠絶する証拠の一つであるかもしれない。

  見よ、彼はふらふらとなって、今にも舞い上がりそうではないか。

  ところが、今回の勝利の場合は、どうも調子が少し変であった。彼はふらふらとなって、長いあいだ飛び回って、ふらっと地蔵堂へ戻ってきた。いつもの例では、彼は横になるとすぐ鼾(いびき)をかくはずであった。それがこの晩に限って、彼は容易に寝つかれなかった。自分の親指と人差し指とが、普段と違って、妙にすべすべしていることを彼は感じたのである。いったい、尼さんの顔に何かすべすべしたものがあって、それが彼の指へ移ったのだろうか。それとも、指がすべすべになるほど尼さんの顔を撫でたせいだろうか。

  「跡取りなしの阿Q!」

  阿Qの耳に、またもこの言葉がひびいた。ちがいない、と彼は考えた。女がいなければいけない。子が、孫がなかったら、死んでから誰が飯を供えてくれるか‥‥‥女がいなければいけない。そもそも「不幸に三あり、後嗣なきを最大となす」(孟子)のに「若敖の亡者の餓死」(左伝)のようなことになってはすこぶる人生の悲惨事である。したがって、彼のこの思想は、一から十まで聖賢の経伝に合致すると見なければならない。ただ惜しむらくは、後に至って「放心を収むる能わず」(孟子)となっただけのことである。

  「女、女‥‥‥」と彼は考えた。

  「‥‥‥和尚なら手を出せる‥‥‥女、女‥‥‥女」と彼は考えつづけた。

  その晩、何時ころ阿Qが鼾(いびき)をかき出したか、われわれは知ることができない。しかしともかく、このときから彼は、指先のつるつるするのが気になり、そのたびにふらふらするようになった。

  「女‥‥‥」と彼は考え込むのであった。

  この一事をもってしても、われわれは、女が有害な存在であることを判断しうる。

  元来、中国の男は、大半が聖賢になる資格があるのだが、惜しいかな、すべて女のため失敗してしまう。商は姐己(だっき)によって亡ぼされた。周は褒じ(ほうじ)によって毒された。秦は‥‥‥歴史に名文はないがおそらく女のせいだと仮定しても全然の誤りではあるまい。そして漢の董卓は、確実に貂蝉のために殺されたのである。

  元来、阿Qは正人なのである‥‥‥われわれは、彼がどんな偉い先生の教えを受けたかは知っていないが、彼は「男女の別」については従来きわめて厳格であった。また、異端‥‥‥若い尼さんとか、にせ毛唐のような‥‥‥を排斥するという正気も、彼は十分に持ち合わせていた。彼の学説は、すべて尼というものは、必ず和尚と私通するものであり、女が一人歩きをするのは、必ず男を引っ掛けるためであり、男と女が二人で話しているのは、必ずあやしい関係がある、というのだ。従って彼は、この連中をこらしめるために、しばしば睨みつけたり、大声で「不心得を責め」たり、あるいはまた、人通りのない場所なら、背後から石をぶつけたりするのである。

  その彼が「而立」(三十歳)にも近い年になって、若い尼さんから、ふらふらになるような目にあわされてしまったのである。このふらふら精神は、礼教上許すべからざるものだ‥‥‥だからこそ、女は憎むべきものなのだ。仮に尼さんの顔が、つるつるしていなかったならば、阿Qは魂を奪われるようなことがなかったろうし、また、仮に尼さんの顔が布か何かで覆われていたら、やはり阿Qは魂を奪われなくて済んだろう‥‥‥五、六年前、彼は芝居小屋の人ごみの中で、女の尻を抓(つね)ったことがあったが、そのときはズボン越しであったから、後でふらふらにはならなかった‥‥‥が、尼さんはそうでなかった。これまた異端の憎むべきを証するものである。

  「女‥‥‥」と彼は考えた。

  彼は「必ず男をひっかけたがっている」にちがいない女に行き会うと、いつも注意してみたが、さっぱり笑いかけてこなかった。彼と話しをする女の言葉も注意して聴いてみたが、別に怪しげな事柄に触れてこなかった。ああ、これまた女の憎むべき半面ではないか。女たちは、ことごとく「猫をかぶって」いるのだ。

  その日、阿Qは、趙旦那の家で一日米つきをした。晩飯を済ませてから、台所に腰を下ろして一服つけていた。ほかの家なら、晩飯を済ませば帰ってかまわぬのだが、趙家では晩飯が早かった。普段は、燈をともすことが禁じられていて、晩飯を食い終わると寝てしまうのだが、たまにこの例外があった。一つは、息子が秀才の試験に合格するまでは、燈をともして勉強することが許されていた。もう一つは、阿Qが日雇いに雇われたときは、燈をともして米をつくことが許されていた。この例外によって、阿Qは、米つきにかかる前に、台所でまず一服吸いつけていたのである。

  趙旦那の家のただ一人の女中である呉媽が、食事の後片付けを済ませてから、これも床几(しょうぎ)に腰をかけて、阿Qに話しかけてきた。

  「奥様は二日も御飯をあがらねえだよ。旦那様が若いのを囲いなさるというので‥‥‥」

  「女‥‥‥呉媽‥‥‥この若後家‥‥‥」と阿Qは考えていた。

  「若奥様は八月に子供を産みなさるだと‥‥‥」

  「女‥‥‥」と阿Qは考えていた。

  阿Qは煙管を置いて、立ち上がった。

  「若奥様は‥‥‥」呉媽は、ごたごた言いつづけていた。

  「おめえ、おらと寝ろ、おらと寝ろ」阿Qは、急に跳びかかって、呉媽の足元にひざまずいた。

  一瞬間、ひっそりとなった。

  「ヒャア」息を呑んでいた呉媽は、突然慄え出すと、大声をあげて表へ駈け出していった。駈けながらわめいて、しまいに泣き声になったらしかった。

  阿Qも、壁に向かってひざまずいたまま、茫然となっていた。それから、両手を、人のいなくなった床几につかえて、ゆっくり立ち上がった。まずかった、という感じがぼんやりしていた。さすがに落ち着かなかった。あわてて煙管を帯にはさむと、米つきにかかろうと思った。ポンと音がして、頭に何か太いものが落ちてきた。急いで振り返ってみると、例の秀才が、天秤竹を持って彼の前に立っていた。

  「太い野郎だ‥‥‥きさまあ‥‥‥」

  天秤竹はまたも真っ向から彼に向かって振りおろされた。阿Qは両手で頭を抱えた。ポンと音がして、ちょうど指にあたった。今度はほんとに痛かった。彼は台所の入り口から転がり出た。背中にまた一撃食らったような気がした。

  「恩知らず」秀才は、標準語を使って背後から罵声を浴びせた。

  阿Qは米つき場へ駈け込んで、一人突っ立っていた。指がまだ痛んだ。「恩知らず」という文句がまだ耳に残っていた。こんな文句は未荘の田舎者からは聞いたことがない。お役所勤めをしたお偉方に限って使う文句だから、特別凄みがあって、特別印象に残った。おかげで彼の「女‥‥‥」思想は消えてしまった。しかも、怒鳴られたり殴られたりした後では、事件がそれで解決したような気がして、かえってさばさばして、すぐ米つきにかかれた。しばらくついているうちに、暑くなってきたので、彼は手を休めて上衣を脱いだ。

  上衣を脱いでいると、表の方で騒がしい物音が聞こえた。阿Qは生まれつきの野次馬だ。そこで声のする方へ行ってみた。声のする方へたずねていくうちに、次第に趙旦那のいる内庭へ来てしまった。見ると、薄暗がりに、それでも大勢集まっているのが見えた。趙家のものが全部、二日飯を食わぬ奥様まで加えて、集まっていた。その他、隣の鄒七嫂もいれば、ほんとの同族の趙白眼や趙司晨もいた。

  ちょうど、若奥様が呉媽の手を引いて、話しかけながら女中部屋から出てくるところであった。

  「こっちへおいで‥‥‥決して、自分の部屋に隠れたりして‥‥‥」

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