日语阅读:朝廷公家家族
公家の紋章は、院政時代から鎌倉時代にかけて起こったようだ。公家は経済的基盤もなく、その血筋と虚名にのみ頼って生きることを余儀なくされた。公家の家紋はあるときは恩賞に、あるいは商品とされたようだ。 そして、公家の家紋はさかんに下賜され、贈与され、売買されて多くの家に広がっていったという。
五摂傢
摂家とは、摂政関白に任ゼられる家。鎌倉初期以来、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五家が並び立ち「五摂家」と称した。
近衛家(近衛牡丹)
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藤原北家の嫡流にあたる名族。藤原基通が内大臣、摂政関白となって、京都近衛の北、室町の東に邸宅を構え、「近衛殿」と称したことからこの名が起こり、のちに氏の名となった。
[江戸時代の禄高:2,860石]
鷹司家(牡丹)
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北家の近衛家実の四男兼平を祖とする。その邸が鷹司室町にあったことから、この名が起こり、のちに氏の名となった。
[江戸時代の禄高:1,500石]
九条家(九条藤)
藤原忠通の子兼実を祖とする。五摂家の中では近衛家につぐ古い家柄。兼実は漢籍?和歌?書に通じ、その日記「玉葉」は有名。代々京都九条の邸を伝領したことから、その名が起こり、氏の名となった。
[江戸時代の禄高:3,043石]
二条家(二条藤)
藤原北家九条家流。九条道家の二男良実が東二条殿を伝領して、二条京極を居所としたことから二条殿と称し、のちに氏の名となった。庶流から俊成?定家などのすぐれた歌人を出している。
[江戸時代の禄高:1,708石]
一条家(二条藤)
鎌倉時代に九条家から分かれた。室町時代には兼良が学問や連歌の分野で活躍している。戦国時代に土佐に下向し戦国大名化した土佐一条家も有名。
[江戸時代の禄高:2,044石]
清華傢
「清華家」は、摂家につぐ家格で、大臣家の上に位する家のこと。この家のひとは近衛大将を経て太政大臣にまで昇りうる家である。
久我家(五つ竜胆車)
村上源氏。久我家はその昔、山城国愛宕郡久我の地より起こったので、これを氏の名とした。その祖は具平親王の子師房で、寛仁四年に源の姓を賜わって人臣に連なったのが始まりである。
[江戸時代の禄高:700石]
三条家(唐菱花)
藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる名家。藤原実行を始祖とする。その邸が京都三条の北?高倉にあったことから、この称がおこり、のちに氏の名となった。転法輪とも称し、笛を家業とした。
[江戸時代の禄高:472石]
西園寺家(左三つ巴)
藤原氏北家閑院流の支族。閑院太政大臣公季の後裔公実の子通季を祖とする。通季の曽孫にあたる太政大臣公経が、山城国葛野郡北山荘に堂宇を建立し、これを西園寺と称したことからのちに家号となった。別に北山殿ともいう。金閣寺は足利義満が西園寺家よりこの土地を譲られ、建てたものである。代々琵琶を家業としていた。
[江戸時代の禄高:597石]
徳大寺家(木瓜花菱浮線綾)
藤原氏北家閑院流。閑院家公実の子実能が葛野郡に徳大寺を創建したことから、のちに家の名となった。笛を家業としていた。
[江戸時代の禄高:410石]
大炊御門家(菱に片喰草)
藤原北家師実の三男経実を祖とする。経宗が大焚御門の付近に住んでいたため、この名がおこり、のちに家号となった。二十一代左大臣信名は、近衛基熙の子で、徳川将軍家宣室ときょうだいであった。筆道を家業としていた。
[江戸時代の禄高:400石]
今出川家(三つ楓)
藤原氏北家閑院流。西園寺実氏を祖とする。実氏は初め、京都今出川の今出川殿に居たため、子孫がこれを家号とした。
[江戸時代の禄高:1,355石]
花山院家(杜若菱)
藤原北家。藤原師実の二男家忠を祖とする。かつてその邸宅に花山院法皇が住んだため、これを氏の名とした。この家から分かれたのが、中山?飛鳥井?難波?野宮?今城?大炊御門の諸家である。
[江戸時代の禄高:750石]
醍醐家(下り藤)
藤原北家。摂家の流れを汲む。一条殿関白昭良(実は後陽成天皇の第九皇子であった)の二男冬基を祖とする家。江戸時代前期に創立された。
[江戸時代の禄高:312石]
広幡家(十六葉裏菊)
正親町源氏。正親町天皇の皇子智仁親王が源姓をたまわって人臣に連なった。のちその子忠幸が尾州に赴き武家となった。その後忠幸は帰洛して広幡大納言と号してから、この称がおこり、家の名となった。
[江戸時代の禄高:500石]
大臣傢
「大臣家」は、内大臣から太政大臣に昇れるが近衛大将を兼ねることはできない公家をいう
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