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日语阅读:九州に名を響かせた戦国大名

来源: 2018-01-02 15:00

 大友氏

  戦国期、義長?義鑑?義鎮の三代で、戦国大名としての成長を遂げ、薩摩の島津氏、肥前の竜造寺氏と九州を三分する勢いであった。なかでも大友氏の全盛を築いたのは義鎮で、豊後。豊前?筑後?筑前?肥後?肥前の六ケ国と伊予?日向の半国に大名領国制を展開した。

  義鎮は入道名の宗麟の方が知られている。有馬晴信?大村純忠とならぶキリシタン大名でもあった。天正六年、豊後より南下の軍を起こしたが、日向の高城(耳川合戦)で島津氏と戦い敗れ、大友氏は守勢に立たされることになった。そして天正十三年、筑後において龍造寺?島津両軍の挟み撃ちにあって大友軍は敗北した。翌十四年、島津氏は大友氏の本拠豊後に突入した。大友軍は島津氏の全面攻撃をささえきれず、豊後は島津氏の支配下に入った。

  龍造寺氏

  龍造寺胤信は宗家?胤栄の未亡人と結婚し、惣領家の家督を継いだのである。天文十九年に、大内義隆の偏諱を受けて隆信と名を改めた。

  その後、隆信は大友宗麟と戦わねばならなかった。宗麟が肥前国の守護職を得て、肥前への進出を狙ったためである。決戦は永禄十二年(1569)に行われ、家臣鍋島信昌の活躍によって大友軍の将大友親貞を討ち取ることができた。

  ここに、龍造寺隆信の名声があがり、信昌の武名が知れ渡ることになった。肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を筑後?肥後?豊前などに進め、大友?島津と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。

  島津氏

  三代久経、四代忠宗のころから盛んに庶子が分立し、室町時代にはそれら庶氏家が独立して大名化する動きもあり、宗家としての島津氏の威令が及ばないということもあった。そして、勝久の代に忠良を迎え国事を託し。忠良の活躍によって、忠良の子貴久が宗家を継ぐことになった。この貴久が戦国島津氏の基礎を築くことになった。貴久のあとを継いだ嫡男の義久は三人の弟の協力を得て、大友氏?龍造寺氏と覇を競い、島津氏を九州最大の戦国大名に成長させたのである。

  しかし、秀吉の島津征伐に敗れ、義久が薩摩一国を、弟義弘が大隅?日向二国を安堵された。そして、関ヶ原の合戦では西軍に属し、薩摩のみとなってしまった。

  大内氏

  大内広世のとき、周防の統一を成し遂げ、さらに長門の厚東氏を討って防長二国に覇を唱え、二代将軍足利義詮に仕えて、周防?長門?石見の守護職に任ぜられた。その子義弘は、九州深題今川了俊に従って九州に下向し、さらに明徳の乱では山名氏清の討滅に功を挙げ、周防?長門?石見はもとより、豊前?和泉?紀伊の六ケ国の守護職を兼ねる大勢力にのし上がった。

  義興の代には足利将軍義稙の管領代にまでなっている。大内氏の全盛時代を現出したのは義興の子義隆で、領国も周防?長門?石見?豊前?筑前?備後?安芸の七ケ国の守護を兼ねる中国?九州の一代勢力となり、日明貿易を通じて、その富力も抜群だった。ことに、重臣たちを、たとえば陶氏が周防守護代、内藤氏を長門守護代、杉氏を豊前守護代にというように配し、領国支配にあたっていたが、ついには、そうした守護代の下剋上によって家を滅ぼされることになる。

  毛利氏

  毛利氏が戦国大名へ転化をとげたのは元就のときからである。元就は大内氏と尼子氏に挟まれ、結局、大内氏の傘下となって勢力を維持することになった。天文九年尼子晴久の兵を郡山城に破って武命を挙げ、三男隆景を小早川氏の養子に、次男元春を吉川氏の養子に入れて態勢を固め、天文二十四年大内氏を下克上によって倒した陶晴賢と安芸厳島で戦い、これに大勝した。

  その後、大内義長を滅ぼし、ついで尼子氏を降し中国十一ケ国を領する戦国大名にのし上がった。北九州の門司城と立花城をめぐる大友氏との攻防は双方知略を尽くした戦いとして知られている。関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の主将となり、その責任をとらされて防長二国を領するのみとなってしまった。

  少弐氏

  鎌倉時代のはじめ、武藤氏が大宰少弐の職を世襲することになり、ついにはその官職名を苗字とするようになった。そもそも少弐氏は藤原秀郷の後裔といわれている。文永?弘安の役に経資?景資兄弟が大活躍をし、特に景資は九州の守護?地頭を指揮して敵将の劉復亨を討ち取るという殊勲を挙げている。

  室町時代になると探題の支援を得た大内氏の勢力が北九州にまで伸びてくるようになり、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。大内?少弐の争いは繰り返され、政資が大内義興の軍に破れると、政資は殺され、資元が大友氏を頼って失地回復を図ったが失敗。

  天文三年、大内?少弐の和睦がなり、資元は自殺。その後、竜造寺氏が大内氏に味方して、少弐冬尚と戦うようになり、竜造寺隆信に追われ、筑後に逃亡、回復を図ったが成らず、少弐氏は滅亡した。

  秋月氏

  秋月氏は大蔵氏を遠祖とする。春実より七代の孫、種雄は「秋月家譜」におれば、「種雄賜封筑前秋月荘乃城而治之、自是以秋月為姓也」とある。すなわち、種雄が源頼家の時代に秋月荘を賜って、地名によって秋月を称したという。

  種朝のころ、中国?九州が騒乱、少弐?筑紫?大友三家が秋月城を襲い攻めた。種朝は城を出て一戦を遂げ、三家の大軍を突き破り、二千余人を討ちとって、大勝利をおさめている。種朝の子種時も、少弐?筑紫らが筑後国中の兵を率いて領内を掠略するのに、筑前国にて合戦し、大いに勝利をえている。

  天正六年(1578)、大友氏が日向高城、耳川で島津氏と戦って大敗すると、秋月種実は島津氏に与して最盛期を迎える。その勢力は十一郡、二十四城を数え、石高にして三十六万石という大勢力となった。

  菊池氏

  南北朝期の菊池武光は征西将軍懐良親王を肥後の本城に迎え、九州南朝方の中心として活躍している。武光は足利方の少弐氏と戦い、九州探題の一色氏?斯波氏を破り、大宰府をおさえて、九州における南朝の最盛期を現出した。

  戦国期にいたり、豊後の大友氏が、肥後の阿蘇氏?相良氏と結び、菊池氏の家督争いに介入しはじめたのである。永正三年、政隆は、大友氏との戦いに出陣したが、その留守中に大友氏と結んだ家臣が反乱を起こし、政隆は当主の座を追われ、阿蘇の大宮司であった阿蘇惟時(武経)を家督に迎えた。

  しかし、武経の時代は長く続かず、大友氏によって、武包が後を継ぎ、武包が天文元年に陣没すると、家督は大友義長の二男、すなわち義鑑の弟義武へと代えられて、完全に大友氏の傘下に組み込まれることになった。

  伊東氏

  祐堯のころから次第に強大となり、義国の代になると、飫肥城をめぐる島津氏との争いが頻繁に行われるようになり、特に文明十六年と翌年の戦いは戦史に残っているほどだ。その後、義祐の代になってからもたびたび飫肥城の争奪戦が伊東?島津両氏の間で繰り広げられた。ついに、永禄十一年にいたり、島津忠親は城を伊東氏に明け渡し、そこで義祐は子の祐兵に守らせた。この祐兵が義祐の跡を継いで、戦国大名伊東氏の中心となる。

  祐兵は天正六年、大友宗麟と連合して島津義久?家久と耳川に戦っている。島津軍と大友?伊東連合軍は耳川だけでなく、名貫原?小丸川畔の高城でも激突している。この戦いで大友軍の先遣隊は島津軍に大敗北を喫し、結局、祐兵は上京し秀吉に仕えた.

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