源氏物語:桐壺 (中日对照)(二)
命婦は故大納言家について車が門から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保って暮していたのであるが、子を失った女主人の無明(むみょう)の日がつづくようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分(のわき)の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といって、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
といってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですが、それもありません。目立たぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」
「こういうお言葉ですが、涙にむせかえっておいでになって、しかも人に弱さを見せまいとご遠慮をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」
といって、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した。
「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分な、かたじけない仰せを光明にいたしまして」
未亡人は、お文を拝見するのであった。
時がたてばすこしは寂しさもまぎれるであろうかと、そんなことをたのみにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児(こども)も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子のかわりとしてめんどうを見てやってくれることをたのむ。
などこまごまと書いておありになった。
宮城野(みやぎの)の霧吹き結ぶ風の音に小萩(はぎ)が上を思ひこそやれという御歌もあったが、未亡人は湧(わ)き出す涙がさまたげて明らかには拝見することができなかった。
「長生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世間の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ時々あがることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せをうかがっているのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお見せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ。良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宮のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入っております。」などといった。そのうち若宮も、もうおやすみになった。
「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」
といって命婦は帰りを急いだ。
「子を亡(な)くしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょう。かえすがえす運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生れました時から親たちに輝かしい未来の望みをもたせました子で、父の大納言はいよいよ危篤(きとく)になりますまで、この人を宮中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、たしかな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遺言を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、過分なご寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の積っていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」
こんな話をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえってしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった。
「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの愛しようをしたのも前生(ぜんしょう)の約束で長くはいっしょにいられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもっていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお見せになっています」
どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、「もうひじょうにおそいようですから、復命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」
といって、帰る仕度(したく)をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を涼しい風が吹き、人の悲しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい。
鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜飽(あ)かず降る涙かな車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に露置き添ふる雲の上人かえってご訪問が恨めしいと申しあげたいほどです」
と未亡人は女房にいわせた。意匠を凝(こ)らせた贈物などする場合でなかったから、故人の形見(かたみ)ということにして、唐衣(からごろも)と裳(も)のひとそろえに、髪あげの用具のはいった箱を添えて贈った。
若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宮の宮中入りは実行性に乏(とぼ)しかった。
御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の恋を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。
もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無きというような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」
とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。
「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
尋ね行くまぼろしもがなつてにても魂(たま)のありかをそこと知るべく
絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
月も落ちてしまった。
雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生(あさじう)の宿命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
右近衛府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寝室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。
朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔のご追憶がお心を占めて、寵姫(ちょうき)の在(あ)った日も亡(な)いあとも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単なご朝食はしるしだけおとりになるが、帝王のご朝餐(ちょうさん)として用意される大床子(しょうじ)のお料理などは召しあがらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人はみなこの状態を嘆(なげ)いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると嘆いた。よくよく深い前生のご縁で、その当時は世の非難も後宮の恨みの声もお耳にはとまらず、その人に関することでだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない。国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出していう人もあった。
幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さいときですら、この世のものとはお見えにならぬご美貌のそなわった方であったが、今はまた、いっそう輝くほどのものに見えた。その翌年、立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、また、だれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、ご心中をだれにもお漏(もら)しにならなかった。東宮(とうぐう)におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間もいい、弘徽殿の女御も安心した。そのときから宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないといって一心にみ仏の来迎(らいごう)を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳のときのことであるから、今度は母の更衣の死に会ったときとは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今までしじゅうお世話を申していた宮とお別れするのが悲しい、ということばかりを未亡人はいって死んだ。
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