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日语阅读:追憶(二)

来源: 2018-01-04 15:02

 一六 水屋

  そのころはまた本所(ほんじょ)も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺(じい)さんが水桶(みずおけ)の水を水甕(みずがめ)の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現(ゆめうつつ)の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。

  一七 幼稚園

  僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院(えこういん)の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅(すみ)には大きい銀杏(いちょう)が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾(はさ)んだのを覚えている。それからまたある円顔(まるがお)の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇(あ)い、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。

  「そりゃ覚えていないだろう」

  僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、萩(はぎ)や芒(すすき)に露の玉を散らした、袖(そで)の長い着物を着ていたものである。

  一八 相撲

  相撲(すもう)もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家(うち)の裏の向こうは年寄りの峯岸(みねぎし)の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山(ひたちやま)や梅ヶ谷の全盛を極(きわ)めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾(さかほこ)でもどこか錦絵(にしきえ)の相撲に近い、男ぶりの人に優(すぐ)れた相撲はことごとく僕の贔屓(ひいき)だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体(からだ)が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束(わらたば)ねにした褌(ふんどし)かつぎが相撲膏(すもうこう)を貼(は)っていたためかもしれない。

  一九 宇治紫山

  僕の一家は宇治紫山(うじしざん)という人に一中節(いっちゅうぶし)を習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上(しんしょう)をすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。

  この「お師匠さん」は長命だった。なんでも晩年味噌(みそ)を買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時にも、やっと家(うち)へ帰ってくると、「それでもまあ褌(ふんどし)だけ新しくってよかった」と言ったそうである。

  二〇 学問

  僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人息子(むすこ)に英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・;リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町(あいおいちょう)二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is a dog――ナショナル・;リイダアの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。しかしそれよりはっきりと僕の記憶に残っているのは、何かの拍子に「お師匠さん」の言った「誰(だれ)とかさんもこのごろじゃ身なりが山水(さんすい)だな」という言葉である。

  二一 活動写真

  僕がはじめて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。僕は確か父といっしょにそういう珍しいものを見物した大川端(おおかわばた)の二州楼へ行った。活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚を釣(つ)っていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はなんでも麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶり、風立った柳や芦(あし)を後ろに長い釣竿(つりざお)を手にしていた。僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。が、それはことによると、僕の記憶の間違いかもしれない。

  二二 川開き

  やはりこの二州楼の桟敷(さじき)に川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯(ほおずきぢょうちん)を吊(つ)った無数の船に埋(うず)まっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩(なだ)れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清(かめせい)の桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろの噂(うわさ)が伝わりだした。しかし事実は木橋(もっきょう)だった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿事(ちんじ)を幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。

  二三 ダアク一座

  僕は当時回向院(えこういん)の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇(だいじゃ)、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高い桿(さお)の上からとんぼを切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座の操(あやつ)り人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化(どうけ)た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

  二四 中洲

  当時の中洲(なかず)は言葉どおり、芦(あし)の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂(かんじょう)や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

  二五 寿座

  本所(ほんじょ)の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りを眺(なが)めていた。すると亜鉛(トタン)の海鼠板(なまこいた)を積んだ荷車が何台も通って行った。

  「あれはどこへ行く?」

  僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。

  「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」

  僕は今度は勢い好(よ)く言った。

  「ブリッキ!」

  しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。

  「ブリッキ? あれはトタンというものだ」

  僕はこういう問答のため、妙に悄気(しょげ)たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

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