日语阅读:川端康成
小説家(しょうせつか)の川端康成(かわばたやすなり)は、1899年大阪(おおさか)に生まれた。幼少期(ようしょうき)に次々と肉親(にくしん)を亡くし15歳で孤児(こじ)となってしまい、叔父(おじ)に引き取られた。もし私達が川端の作品(さくひん)の中に流れる感情(かんじょう)の本体(ほんたい)を捜そうとするなら、この辺が原点(げんてん)ではないだろうか。つまり、自分は寒い所にいながら、暖かいものを得たいと願っている……。
1920 年、東京帝国大(とうきょうていこくだい)に入学した川端は、級友(きゅうゆう)らと第六次「新思潮(しんしちょう)」を刊行(かんこう)し、二号に掲載 (けいさい)した「招魂祭一景(しょうこんさいいちきょう)」が菊池寛(きくちひろし)に認められて、以後、菊池の紹介(しょうかい)で知り合った横光利一(よこみつとしかず)らとともに「文芸時代(ぶんげいじだい)」を創刊(そうかん)して、新感覚派(しんかんかくは)の運動(うんどう)を進めた。青春小説(せいしゅんしょうせつ)「伊豆の踊り子(いずのおどりこ)」で文壇(ぶんだん)に登場(とうじょう)した。孤独(こどく)な自己(じこ)を見つめる厳しい目と、他人への優しさを持つ叙情的(じょじょうてき)な作家(さっか)として認められた。
その後、「浅草紅団(あさくさべにたん)」、「禽獣(きんじゅう)」、「末期の眼」などを経て、名作(めいさく)「雪国(ゆきぐに)」が生まれる。越後(えちご)湯沢(ゆざわ)の温泉場(おんせんば)の風物(ふうぶつ)と登場人物とが調和(ちょうわ)して日本的な叙情が描かれ、文壇の絶賛(ぜっさん)を博した。日本では、「雪国」が何回も映画化 (えいがか)され、舞台化(ぶたいか)された。この作品には彼の世界が凝縮(ぎょうしゅく)されている。
戦争期(せんそうき)も時局(じきょく)に影響(えいきょう)を受けることなく、芸術派(げいじゅつは)の作家として書き続け、戦後は「千羽鶴(せんぱつる)」、「山の音(おと)」、「古都(こと)」などの、日本的な美を描く作品を残した。
一方、創作活動(そうさくかつどう)のほかに、1957年には、日本ペンクラブ会長(かいちょう)として、国際ペンクラブ東京大会開催(かいさい)に尽力 (じんりょく)し、その功労(こうろう)として、日本文学振興会(にほんぶんがくしんこうかい)より菊池寛賞を受賞(じゅしょう)した。翌年(よくとし) には国際ペンクラブ副会長に推されていた。また、湯川秀樹(ゆかわひでき)らの世界平和アピール七人委員会に加わり、さまざな問題に関心をよせた。 1968年には、日本人として初のノーベル文学賞を受賞した。
その後、多忙(たぼう)を極(きわ)め、年齢(ねんれい)や病気(びょうき)のためもあってか、創作力も衰(おとろ)え、1972年4月16日、仕事部屋(しごとべや)にしていた逗子(ずし)マリーナマンションの自室(じしつ)でガス自殺(じさつ)した。72歳だった。遺書(いしょ)のようなものは一切(いっさい)残されていなかった。
絶筆(ぜつぴつ)は「志賀直哉(しがちょくさい)」であった。遺作(いさく)は1964年から書き綴(つづ)って来たまま、未完(みかん)の「たんぽぽ」である。遺稿(いこう)(という言い方は正しくないかもしれないが)は、死の直前(ちょくぜん)、1972年1月、2月に書かれた「雪国抄」という事になるだろうか。
生まれてすぐに両親(りょうしん)を亡くし、引き取られた祖父(そふ)も早くに亡くして孤児となった川端が、死を選んだその日に見ていたのは何だったのだろう。
◆ 注解◆
引き取られた―领取,任领,收养。
本体(ほんたい)―真相、原形。
この辺―这一带,这种情况。
東京帝国大(とうきょうていこくだい)―现东京大学。
菊池寛(きくちひろし)―小说家、剧作家(1888年~1948年)。出生于香川县。和 芥川龙之介一起发起第4次新思潮运动,后创建月刊「文艺春秋」。
横光利一(よこみつとしかず)―作家(1898年~1947年)。出生于福岛县。是新感觉派的发起人之一。
新感覚派(しんかんかくは)―新感觉派。大正末期至昭和期的文学流派之一,在感觉崭新和表现手法方面具有现代的特点。
ペンクラブ―国际笔会。国际文艺家协会(PEN CLUB) .湯川秀樹(ゆかわひでき)―物理学家(1907年~1981年),出生于东京,1949年获得诺贝尔物理学奖。
世界平和アピール―呼吁世界和平。
ノーベル文学賞―诺贝尔文学奖。
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