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日语:贅沢消費論

来源: 2018-01-05 10:30

 要旨

  なぜ人は贅沢な消費を行うのであろうか ? この小論ではこの問いに答えるために、どのような贅沢であれば、それが望ましいものであると考えることができるか、というあるべき消費規準についての考察を行っている。この点を追求するために、贅沢観念のいくつかの系譜にしたがって、その変遷を辿っている。これらのなかでもとりわけ、ジンメルの流行理論と、ヴェブレンの浪費原理に注目している。これら二つの考え方のなかには、16世紀以来の趣味論の系譜のなかで培われてきた、趣味形成の議論が含まれていると解釈できる。これらの議論は、再帰的な過程を経て、社会的に妥当と考えられるようになる消費の規準を明らかにしている。この小論ではこのようにして最終的に、贅沢消費の趣味論的な理解を行うなかに、現代の混沌とした消費社会のなかでの、あるべき妥当な消費規準を見いだそうとする試みを行っている。

  Why Does Mankind Consume Luxury goods?

  -The Judgement of Taste in the Consumption Theory of Simmel and Veblen -

  Motoshi SAKAI

  Abstract

  Why does mankind consume luxury goods and services ? This paper makes an investigation into the judgement of luxury consumption. We search this matter by tracing the history of the idea of luxury, and pay a special attention to the Simmel's theory of Fashion, and the Veblen's Principle of Waste Consumption. We are based on the theory of the Judgement of Taste, and interpret these ideas of consumption. People's taste of consumption is made up through the process of "reflection," and carries social validity. We eventually have a trial of finding the judgement of luxury consumption in understanding the taste formation of luxury in this essay.

  1.贅沢の観念

  贅沢という言葉をあらわす英語は、ラグジャリー(luxury) である。この語幹のluxeという言葉は、すでに日本語のなかに定着しているデラックス(De Luxe) という言葉から推測できるように、過剰なことあるいは豊かなことという意味を持っている。つまり、贅沢ということは、ある程度以上に過剰に存在するものを表すこととして、つねに成立してきている。

  ここで人間の消費活動について考えるときに、この贅沢の持つ過剰性という性質には、性格がすこし異なる二つの意味が含まれていることがわかる。ひとつは、余計なものとして、本来の必要不可欠のものから、限りなく分化され、分離するような、派生の可能性を持つものである。本来の性質に対して、「付加的 (additional)」といいかえることのできるものである。新しく生まれる変化の要素を表している。このことは、消費活動を考える上では、必需と贅沢の対比に現れてきている。必要最小限の消費が必需という形で成立するのに対して、贅沢消費はそれを上回る支出として、付け加わる部分である、と考えられている。

  ところが、もうひとつの意味を含むものとして、贅沢の観念は成立してきている。それは、同じく余計なものであっても、そこに次第に沈殿し蓄積されていくものとして、最終的に残されたもの、不変のものという意味である。このことは、イタリアの社会経済学者V.パレートによって「残基(residual)」と呼ばれることになる特性である(1) 。言語学の比喩を用いるならば、あたかも派生語をたくさん持つことができる「語根」のようなものとして、この贅沢の過剰性が体現されるものである。贅沢という言葉には、このようにはじめの段階から、つねにこの二つの意味が対立したり、また結合したりしながら含まれてきているのである。

  この点で示唆的なのは、人類にとって原初的な贅沢の在り方である。たとえば、人類の家屋は収穫物の貯蔵庫から始まった、という人類学者J.E.リップスの報告はたいへん重要な意味を含んでいる(2) 。人間は、洞穴やテントのような風雨を防ぐための最低限の家から、徐々に定住のためのがっしりとした、平地に建てられる家屋に移っていくことが知られている。このような「贅沢な」家屋は、なぜ可能になったのか、という問題がある。つまり、人間のすむ定住用の家屋というものの原型はなにか、ということである。リップスによれば、このような家屋の原型は、風雨をしのぐための必需型の洞穴やテントの類の家屋ではなく、むしろ定住のために建てられた、いわば贅沢型の家屋タイプであるとする。というのも、このタイプの家屋は、そもそも人間を物理的に保護する目的で建てられたのではなく、彼らの糧となる収穫物を保存するために建てられたからである、と指摘している。人間の肉体を守るという直接的な欲望によって、家屋という贅沢が可能になったのではなく、収穫物を蓄積することが長期的に重要であるという「贅沢な」習慣が家族のなかでしだいに認識され、残基となって、そののち家屋が形成されたのである。結局のところ、蓄積などによる余剰、つまりこのような豊かさの保存が可能になったとき、はじめて人間は贅沢という観念を獲得するといえる。

  贅沢消費とは、間違いなく過剰な消費を行うことであり、それは表面的には、人間の欲求が高度になったからであるという解釈も可能かもしれない。けれども、わたしたちが忘れがちなのは、この贅沢消費が行われることそれ自体よりも、むしろこの可能となる条件の方である。過剰な消費ができるためには、過剰分の原資となるものがなければならないし、またときにはそのための蓄積が存在しないと可能ではない、というきわめて単純なことが見過ごされがちである。とかく、贅沢では消尽の方に目が奪われがちになるが、むしろ注目しなければならないのは、こちらの残余と蓄積の方である。

  2.社会的機能としての贅沢

  すこし話を戻して、はじめに贅沢の付加的な過剰という意味に注目するならば、贅沢は後で述べるように装飾的な美的感覚のような質的な問題であるよりは、まずは量として、圧倒的に多いことに意味があった。この点で贅沢の観念に明確な定義を与えたのは、十九世紀から二十世紀にかけてドイツで活躍した経済史家 W.ゾンバルトである(3) 。彼は、1912年に著した『恋愛と贅沢と資本主義』という書物のなかで、「贅沢とは、必需品を上まわるものにかける出費のことである」と考えた。必要以上の出費という量的な問題として定義を与えている点で、積極的意味を持つものであった。ここでは、贅沢という消費の規準について、質的で絶対的な規準を採用するのではなく、むしろ必需との関係で成り立つと考えるような、相対的な規準を考えていることになる。

  量的な問題に限っていうならば、贅沢は必需とはあきらかに異なる性質を示す。もし人びとの消費活動が必需のみに限定されるならば、必要とするものには限りがあるのでいずれは飽和状態に達してしまう。ある一定のところで、人びとの消費は止まってしまうはずである。ところが、実際の消費活動のなかには、贅沢消費も相伴って含まれるために、所得水準の上昇があるならば、消費の増大には限りがないようにみえる。このような「消費につぐ消費」という量的な現実は、贅沢消費によって、かなり増進されるといえる。統計的にみても、贅沢消費は所得の変化に敏感に反応する性質を示している。言い換えるならば、贅沢消費はいわゆる所得弾力性の高い性格を示すことがよく知られている。

  ゾンバルトは、贅沢消費のモデルのひとつとして、十七世紀から十八世紀のフランス絶対王政期ルイ十四世を取り上げている。必需的な生活を送っている庶民階級に対して、贅沢消費を行っている貴族階級の消費を位置づけた。ルイ十四世は、この時代の最高と称せられる建築家、造園家、画家、家具職人たちを集め、資力のかぎりをつくして、ヴェルサイユ宮殿をはじめとする多くの宮殿を建設している。当然のことであるが、宮殿は建築物として壮大な規模を誇っている。寝室をはじめとする部屋の数は多い。室内装飾でもキャビネットや箪笥などの工芸的な家具調度品が数多く揃えられている。また、芸術作品の収集にも、国家予算の多くが使用された。

  このルイ十四世の例では、質的な贅沢も重要ではあるが、同時に量的な意味での贅沢に注目に値すべき点が多い。たとえば、馬車は一人に一台あれば十分であるにもかかわらず十台所有したり、一人の食欲を満足させるために十人前の料理を用意したりするような、量的な贅沢が貴族生活の消費にはほぼ必ず含まれている。ルイ十四世の宮殿建設には、国家予算の多くがつぎ込まれたが、これらの収入の伸び以上に、さらにこれを上回って贅沢消費に資金が回されたのである。

  問題は、なぜ今日では浪費と考えることのできるような消費様式が、王侯??貴族階級にだけは許されていたのか、という点である。ゾンバルトの答えは、贅沢消費には市場形成を行う力が存在するからだ、ということにある。少し矛盾しているように見えるかもしれないが、貴族の行う贅沢消費は一面では浪費的で、非生産的ではあったが、同時に他面ではきわめて「生産的」な側面を持っていたといえる。というのも、王侯や貴族階級が大判振る舞いの贅沢な消費を行えば、それによって庶民層の所得水準が上昇し、さらに平均的な消費支出を増加させる影響を及ぼす可能性がある。封建時代でも、今世紀の経済学者ケインズが指摘したような乗数効果が作用するからである。「ビンの秘密」と文明批評家G.バタイユによってよばれた効果がここでも働き、貴族消費は、大蔵省によって紙幣が詰められ、砂漠に埋められたビンを掘り出しその中身をつかうことと、同じ効果を社会へ与えることになる。もちろん、こののち十八世紀の歴史上有名なジョン??ローの事件や、英国の南海バブル事件などの一連の事件を生み出す原因に、贅沢消費がかなり関わっていたことも、評価には加える必要がある。けれども、このようにしてルイ十四世の宮殿造りは、今日の公共事業に相当し、フランス国全体の経済を活気づけることに貢献したのである。

  ゾンバルトと同様の指摘は、じつはルイ十四世の時代からその後の時代に活躍したフランスの思想家モンテスキュー『法の精神』によってもすでに行われていた (4) 。彼は、贅沢が資産の不平等に応じて比例的に生ずると考える。このため、共和政では平等が基本原理なので贅沢は禁止されるべきであるが、君主政や貴族政のもとでは、不平等を原則としており、贅沢は禁止されるべきではないと考えた。君主政のもとでは、個人の富は庶民層の生存上の必需を奪うことによって増加したのであるから、それらを庶民層に返す何らかの手段が必要となる。つまり、もし「富者たちがそこで多くを費消しないならば、貧者たちは餓死してしまうだろう」という指摘を行っている。君主国家では、むしろ贅沢を行うことは庶民層から商人層、貴族層から君主へ向かって、しだいに増加する必要があり、もしこれを行わなければ社会全体が縮小し、すべての需要がかえって失われてしまうであろうと考えられた。歴史的にみても、ほとんどの国では、「贅沢( 奢侈) 禁止令」や「倹約令」が発布されるが、しだいに、これらの禁止令は廃止される傾向を辿ることになる。もちろん、江戸時代に見られるように、このような事情は日本にも当てはまる。

  なぜここで贅沢が正当なものとして評価されるようになったかといえば、贅沢が市場を形成し、需要を喚起する強い力を持っているからにほかならない。社会のなかで、経済的需要を維持するために、贅沢は必要だったのである。贅沢消費が行われることによって、君主から貴族へ、商人から庶民へ向かって波及効果が広がることがなかったならば、またこのような市場形成力が行使されることがなかったならば、歴史的にみて、これほどの支持は得られなかったであろう。このように、贅沢消費は市場を通じての分配と再分配という、量的な経済問題を含んでいる点で、まず認められるようになったのである。このとき、まず最初に行われる君主や貴族の贅沢消費は、純粋に「浪費」であり、「無駄」な意味しか存在しないかもしれない。けれども、これらが社会に対して波及効果をもたらし、庶民階級にとって必要不可欠の量的な効果を持つに至って、はじめて贅沢の社会的意味が存在することになる。

  このように、贅沢ということが社会的に認められるのは、まず社会の中の、貴族が行うような上流文化、高級文化(High Culture)として成立しているのを見ることができる。そして、贅沢は後で述べるように、貴族階級の威信を示すための特権的な財??サーヴィス消費として発展していくことになる。けれども、贅沢の今日的な問題は、このような贅沢が階級制のなかに成立するのではなく、大衆のなかで求められているという点にある。とりわけ大衆社会での贅沢とは何か、この点が問われているのである。

  3.精神的欲求としての贅沢

  人間の欲求構造のなかに、高度の欲求として存在し、必需に対してより付加的な贅沢という欲求が存在すると考える立場は、経済分野でも有効な考えとして受け入れられている。けれども、この欲求の内容を経済学的に確定することには、たいへんな困難がある。

  「驚くべきことに、人がなぜ財を求めるか、考えてみると誰もしらない」という問題提起を、現代において行ったのは、独自の観点から消費論を書いた文化人類学者のメアリー??ダグラスである(5) 。通常、このことに答えるのは経済学の役割だが、現代の経済学は、人びとの嗜好が短期には変化しないと考えている。消費欲求の内容と考えられる、嗜好や趣味(taste )は所与であって、そのかぎりで価格や所得の変化が消費者へどのような変化を及ぼすのかを、経済学は考察すると説明される。経済学は、欲望??欲求の内部には関わることがない。経済学者は、このような欲求の形成に関する有効な理論を持たない、ということは、暗黙の了解事項である。趣味は、経済学の消費理論での基本的な要素であるにもかかわらず、現代の経済学では、それは中身のわからないブラック??ボックスであると考えられている。経済学者のT.シトフスキーが指摘したように、人間は消費の刺激に対して鋭く反応するにもかかわらず、経済学はその途中の過程については追求することはなかった(6) 。また、K.ランカスターは、消費者が財そのものより財の持っている特性に反応する、と考える。バナナを消費するときに、消費者は直接的には栄養や味覚という特性に反応するのであって、バナナそのものの嗜好については間接的な選好を示すにすぎない、とする。このため、嗜好の内容に複雑な順序づけが存在することはすべての人が認めても、その順序づけを確定することまでには、経済学が深く踏み込むことがない。

  けれども、このような欲望や欲求の内容について、所与と考えるようになったのは、比較的最近である。すこし前の経済学者は、欲求の内容についての見解を明らかにしてきている。たとえば、『一般理論』を著したJ.M.ケインズは、「わが孫たちの経済的可能性」という論文のなかで、二つの欲求が存在することを指摘したことがある(7) 。ひとつは、他者に関係なく感じる欲求で、生理的で必需的な欲求であり、「絶対的欲求」とよばれるものである。もうひとつは、他者に優越する欲求で、飽くことなき欲求であり、「相対的欲求」とよばれたものである。このうち、絶対的欲求は、バナナをたくさん食べれば満腹になるように、物質的な充足がすすめば、いずれ飽和状態になるであろう、と考えられた。けれども相対的欲求は、優越する水準が高まれば高まるほど、より欲求の度合いは高くなる性質がある、と考えた。ケインズの考える「孫たち」の時代には、絶対的欲求についてはある程度充足させることは可能だが、相対的欲求については永遠に充たされることはない、と考えた。

  この点で参考になるのは、心理学のA.H.マズローである(8) 。彼は、『人間性の心理学』のなかで、欲求段階を示している。ここで、経済学が容易になしえなかった、欲求の内容と欲求を行う順序段階を提示している。そこでは、基本的な欲求であると考えられる物質的欲求から、より高次の欲求であると考えられる精神的な欲求へ向かって、充足の順序段階を明らかにした。低次から高次へ順位をつけて、欲求が発展していくと考えられた。

  まず第一に、栄養摂取、睡眠などの生理的な欲求が基礎となる。第二に、社会の秩序家族の安定などの安全欲求。それに続いて第三に、交際や情愛などの愛情の欲求がある。さらに第四に、支配や評価などの尊敬欲求。そして第五に、潜在的な自己を現実のものにしたいという、これらの欲求の中でも、とりわけマズローの名前を高からしめた、自己実現欲求がある。このように、人間の欲求の中に、物質的な欲求に止まらず、精神的な欲求の存在することを示し、多様な欲求の有り様を提案した点で、マズローの欲求分析は評価することができる。けれども、実際にはこの欲求段階の充足順位がかなりあいまいなことは、マズロー自身がすでに理解していた。欲求の定式化ということには、かなりの不確定な要素が含まれることはよく知られている。たとえば、宗教的な体験でよく語られるように、空腹だからといって、自己実現を絶対に図ることはないとはいえない。

  このように、マズローは欲求の内容を五段階に分類を行ったが、その順序づけはかなり直線的な位階で統御されるものと考えられてた。けれども、このような欲求が現れる過程は、かならずしもこのような直線的なものばかりではない。間接的で、かつ再帰的な過程を含むものとして成立してきている。たとえば、消費が行動となって現れるときには、購入段階の欲求と、使用段階の欲求は必ずしも同じわけではない。いくつもの欲求が複合していることが、今日の消費の特徴となっている。じつは、このように消費の使用や消耗過程が強調されるようになってきたことには、人びとの欲望??欲求観の転換があったと見ることができる。ここに、欲望??欲求がどのようにして形成されるのか、ということが問われるようになる兆候を見ることができる。もっとも、このことを異なる側面から見れば、欲求というものが贅沢消費に及ぼす影響は、たいへん不確定なものに止まることを示している。とりわけ、社会のなかで現れる消費欲求の場合に、このような社会過程の影響を受け、不確定になることが考えられる。

  つまり、贅沢のような欲求の構造には、個人欲求のなかだけでは決定できない性質の欲求が存在することが知られるようになってきている。この点で、ほぼ 200年前に生きたスコットランドのD.ヒュームはかなり常識的で、洗練された贅沢観を持っていた(9) 。同じ贅沢にも「良い」贅沢と「悪しき」贅沢とが存在し、この判定はたいへん難しい。その時代に、マンデヴィルが風刺的に描いたように、浪費は個人的にみると悪徳である場合でも、社会全体にとっては有益である場合もある。またその逆の場合も存在する。ヒュームの判定にしたがえば、悪しき贅沢はたしかに悪徳ではあるが、それが失われたのちにはびこる「怠惰」や「無為」よりははるかにすぐれている、とされる。欲求の程度にははっきりとした規準がない以上、悪徳を一掃するために、ひとつひとつの悪徳を徳と入れ替えていくようなことはできない。もし人間にとって贅沢消費ということを避けることができないならば、人間に可能なのは、ひとつの悪徳を除くために別の悪徳を以ってする以外にない。贅沢の節度を守ることが必要であろう。おそらく贅沢消費の問題は、この部類に属する問題ではないだろうか。そして、このような過程を通じて、贅沢への欲求は、何度となく社会による淘汰作用を受ける必要がある。

  4.趣味の再帰的性格

  心理学以外にも、欲求の内容を問う学問が存在しなかったわけではない。とくに、贅沢消費については、社会的な作用を織り込んだ欲求の構造が探究される必要がある。もし社会理論に近いところに、この観点を探すとなると、それは「趣味( taste)論」である。しかし、これらは理論発展の途中で、社会理論から美学??道徳学の分野へ追いやられてしまっていた。十六世紀から十八世紀後半にかけて、趣味論はヨーロッパに形成された。けれども、十九世紀に入ると、美学理論のほうへ押し出されてしまい、社会理論への影響は薄れてしまった。ここでは、すこし迂回することになるかもしれないが、この忘れられた観点を喚起して、趣味についての議論を贅沢消費の文脈のなかへ復活させてみたい。

  まず、消費活動に近いもののなかで、食事の趣味論を取り上げてみたい。多くの消費社会では、グルメ、グルマンと呼ばれる「贅沢な」人びとが現出することがある。これは、グルマンディーズ (gourmandise)、つまり食道楽あるいは美食趣味という言葉に由来する。このグルマンディーズに詳細な定義を与えたのは、1826年に『美味礼賛( 味覚の生理学)』を書いたブリア-サヴァランである(10)。フランスでは、すでにフォンテーヌや百科全書派のもとで、趣味論の伝統があった。このグルマンディーズという美食趣味とは「暴飲暴食の敵」であって、量としての贅沢を排除して、「味覚を喜ばすものを、情熱的に理知的にまた常習的に愛する心」であると考え、質としての贅沢を追求する立場である。食事は、大量に摂れば満足できるというものではない。また、単に栄養が摂れれば、良いというのではない。そこには、フランス語でグウ(gout)とよばれる味覚を満足させるような規準が存在すると、サヴァランは考える。

  つまりは、美味しいと感ずるのはなぜかということである。人びとが共通に美味しいと感ずるにはなにか原因があるのだろうか、ということである。そして、この味覚を成立させる感覚に三種のものがあるとする。直接感覚、完全感覚、反省( 再帰) 感覚である。たとえばすこし具体的にいうなら、この三つの感覚は、それぞれ(1) 桃を食べて、口の中で酸味を感ずる段階、(2) 飲み込む前までに、口中のあらゆる感覚が完成する段階、そして、(3) 飲み込んでしまってから、感じたことを総合的に判断して、「これはうまい」とつぶやく段階、があると考えられた。食事を行うという消費活動のなかで、味覚を感じるという欲求のためだけであれば、完全感覚まであればよいことになる。けれども、ここで重要だと思われるのは、第三の反省( 再帰) 感覚であると思われる。彼は「グルマンディーズはわれわれの判断から生まれるのであり、判断があればこそ、われわれは特に味の良いものをそういう性質をもたないもののなかから選びとるのである」と言う。この点は、ここでみた個人的感覚の問題を超えるものである。ここで人びとが示す「良き趣味」がどのようなものであるのかは、むしろ社会で形成される趣味の問題である。とくにこの点で「再帰」という視点が重要になる。ここで、趣味論は、個人心理のなかで直線的に構成されると考えられるような欲求論とは、一線を画すことになる。

  趣味が人びとの間で、多様に陥る傾向を指摘し、ここに再帰という作用が必要であることを説いたのは、前述の哲学者D. ヒュームである(11)。彼は、このような人びとの間には様々な感じ方があるにもかかわらず、それが調和されるような規則が成り立つと考えた。それを「基準(standard)」とよんで提示しようとした。この問題は、彼が1756年頃に書いたと言われる論文「趣味の基準について」のなかで指摘されている。彼は、趣味判断のなかでも、とりわけ批判と総合的判断の再帰プロセスを重視した。この結果、趣味の原理は「訓練によって向上し、比較によって完全にされ、一切の偏見を払拭している強靱な良識」のゆえに、形成されると考えられることになる。もっとも、このことをだれが行うのかという点では、批評家というものがこのプロセスの行使に関して貴重な存在だとされるものの、このような基準を提示できる批評家はまれであるとする。この点では、ヒュームの定義による趣味判断が普遍的な価値を持つものとして成り立ちうる条件には、かなり厳しいものがある。

  前述のサヴァランは、味覚というきわめて個人的な感覚に、趣味の性質をみた。けれども、すでにこの反省(再帰)感覚のなかに個人感覚を超えた問題のあることは、十八世紀の趣味論のなかで気づかれていた。サヴァランへ影響を及ぼしたと思われる、『判断力批判』を書いた哲学者I.カントも、同様に趣味に二重の意味のあることを指摘している(12 。快適に関する個人的な趣味判断であると考えられたのが、(1) 感覚的な趣味(taste of sense)である。これに対して、美に関する、普遍妥当的( 公的) な判断であると考えられたのが、(2) 反省的(再帰的)趣味(taste of reflection) である。そしてここで、カントは趣味が、その本質からして、私的なものに止まるものでなく、むしろ社会的な現象を含むものとして提示した。ある人が何かある物を「美」であると主張しようとする。このとき「この物は、私にとっては美しい」と個人的に言ったとしても、他の人達はそれを受け入れるとは限らない。彼は他者が同感するような、妥当な「美しさ」を提示しなければならない、あるいは他者に同意を要請する必要があると考えた。このとき、彼は自分自身の趣味判断と、他者の趣味判断の双方を含有しなければ、彼の主張は通ることはない。

  このような再帰性によって獲得されるような、他者を顧慮するうえで形成される判断能力を、カントは「共通感覚(sensus communis) 」とよんだ。そして、最終的にはこの共通感覚に基づいて、趣味の定義を与えている。つまり、趣味とは、「与えられた表象に関する我々の感情にすべての人が概念を介することなく、普遍的に与かり得るところのものを判定する能力のことである」と考えた。もっとも、このような「普遍的に与り得るところのもの」という普遍妥当的なものは、必然的にあらわれるというわけのものではない。けれども、趣味というものが成り立つときには、これに伴って必ずあらわれるのである。

  問題となるのは、なぜ当時贅沢の判断や、さらには消費論や社会論のなかへ、この趣味論が浸透して行かなかったか、ということである。おそらくここで、趣味が主として観念の問題としてのみ取り扱われてきてしまったからであるといえる。W. ベイトが指摘しているように、人文分野ではその後、古典主義からロマン主義へ移行するにつれて、個人主義的で、かつ観念的に、この趣味は解釈されるようになった(13)。あとで見るように、趣味が人と物との関係の中で引き起こされているにもかかわらず、実際には趣味という考え方は、観念の世界にのみ閉じ込められ、現代に復活されるまでは、消費理論の世界へはあまり適用されることがなかった。けれども、ここで見てきたような趣味論の枠組みは、すくなくとも贅沢消費を問題にするときに、たいへん重要な視点を提供していると考えられる。贅沢という問題が、社会的な視点を必要とする、ということに目を向けさせる契機となる。

  5.贅沢の模倣過程

  趣味論での再帰過程が、もし個人的な審美眼としてのみ考えられてしまうならば、おそらく贅沢論のなかでは、この視点は美的贅沢の規準としてのみ取り上げられることになる、という誤解を受けるかもしれない。ところが前述のように、贅沢は社会に浸透してそのなかで、社会的な淘汰作用を受けていく現象である。この社会的な現象という点から見るならば、贅沢のひとつの源流は、貴族趣味を模倣する過程のなかに現れる。とりわけ、現代のような大衆社会では、贅沢はすこし上流の階層を模倣することが、贅沢のひとつのモデルとなる。こうして大衆社会では、あたかも贅沢は流行現象のひとつとして存在する。

  まず第一に、この点であげなければならない、古典的な理論がある。それは、フランスの社会学者G.タルドが1890年に書いた『模倣の法則』である (14)。この本によって、社会行動のスタイルが人びとの間に普及するのは、模倣という意味があるからだという考え方が一般的になった。模倣というのは英語でイミテーション(imitation) という言葉を使う。このイミテイト、模倣するという言葉は、いわゆるイメージという言葉と同類であり、実体があって、その実体を何かのイメージとして受け取る。つまり、鏡に映した像として受け取る。これが模倣というものになる。イミテーションというのは、いわばコピーというものを作る、という考え方になる。ここでは反復し、複写するということが模倣ということになる。社会的な行動というものは、だれかが一番最初に新しいものを作ったことは間違いない。そこでは模倣は存在しないが、そのあと追従者たちによって模倣されることで、大勢の人たちの間に普及するということになる。タルドは、このような模倣はいわば論理を超えた考え方であり、超論理的な方法によって起こるという指摘をしている。ここにひとつの論理的な飛躍があり、形作られた不変要素が残基となって模倣過程を形成し、社会が動いていくような、模倣によるダイナミックスを描いてみせた。

  ここでタルドは、模倣過程が社会プロセスのなかで生ずるという視点を提示して、この模倣が人間間で見られるいくつかの関係のなかに生ずることを見ている。なかでも、とくに上下関係、つまり上層階級と下層階級との関係として、起こることに注目した。このときに、下層階級が上層階級を模倣することで、社会現象が連鎖的に起こっていく可能性があると考えた。たとえば、タルドがあげた例では、貴族の行なっている奢侈が徐々に平民層に浸透していくことが典型的なものである。フランスの絶対王制期には、貴族文化というものが次第に平民層に模倣されることによって、消費活動が起こっていった。ここで、上層から下層への模倣過程は、自分の所属する層に最も近い層を模倣することから生じた。自分の近くにいる、ほんのすこし上の人たちの模倣をすることが、連鎖的に起こることである。そのほんのすこし上の人たちは、また自分のほんのすこし上の人たちの模倣をするという形がつながって、連鎖的に上層階級の真似をするということが起ってくる。このときに、社会全体でみて集団現象としての模倣が起こるであろうと考えた。このような形で上流層からの流行の普及ということが、上層階級から下層階級にコピーを作る形で模倣され、同じことが反復され、そして最終的に、贅沢消費が下層階級に伝染していくことになる。ここに、模倣という贅沢のひとつの本質があらわれる。

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