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日语:飛鳥川の淵瀬

来源: 2018-01-05 10:33

 一 はじめに

  中世文学の中には世の無常を語る作品が多いが、無常観は中世文学の専売特許ではなく、既に上代から現れる。仏教の無常観に限らなければ、広く人や物の移り変わりや死を意識したという意味で、たとえば万葉集の挽歌などには早くからそういう無常観が現れていたと見るべきであろう。仏教の影響を受けた無常観も、万葉第三期には既に明確に現れ、大伴旅人や山上憶良の諸作品に深く影を落している。

  そうした平安以前の無常を語る作品群の中で、どれが後世に与えた影響が大きかったか、などということを単純に比較することは出来ないが、たとえば古今集の

  題しらず        読人しらず

  世中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる(巻十八雑歌下九三三-注1)

  などは、その最たるものの一つと言えるのではなかろうか。読者を感動させる秀歌とは言えないだろうが、古来人口に膾炙し、後世に与えた影響は極めて大きかったと思われる。ところがこの歌の古今集の注釈書における解釈に釈然としないものがあった。或いは私の読みの方に問題があるのかどうか、ともあれ私見を披露して大方の批判を仰ぎたい。

  二 古今集九三三番歌の飛鳥川

  たとえば新日本古典文学大系『古今和歌集』(小島憲之??新井栄蔵校注一九八九年二月二〇日岩波書店。以下「新大系」と略称する)における九三三番歌の脚注は次のようになっている。

  世の中というものは、何を一定不変のものとし得ようか。「明日」という名のあの「飛鳥川」だって、昨日もあれば今日もあるのであってその証拠には、昨日までの深い淵が今日は浅い瀬になるのだ。○世中 単に抽象的に社会というのではなく、人と人とのあいだ、人と人との関わり方という具体的なイメージを含んでいう。名義抄「人間 ヨノナカ」。→四七五。○常 一定不変をいう概念で、万葉集以来例が多い。○あすか河 変ることの代表的景物。→三四一。▽昨日??今日??明日→八六一。「世の中に、いづれのことか、いかなるわざか、常ならんと思ひ取る心なり」(両度聞書)

  この注の場合、現代語訳の中の「昨日もあれば今日もあるのであって」という部分は要するに「昨日と今日は違う」という意味なのだろうが、このままの表現では、「あれ」「ある」を存在するという意味に解することも出来、そうすると全く逆の意味になってしまう。また「○あすか河 変ることの代表的景物」としながら、飛鳥川の変化を詠んだわけではない三四一番歌(後出)の参照を指示する点も説明不足と思われるが、それよりも疑問なのは、飛鳥川を「変ることの代表的景物」と説明することそのものである。

  これは新大系独自の解説というわけではなく、『現代語訳対照古今和歌集』(小町谷照彦訳注一九八二年六月二十五日旺文社文庫)も、「「飛鳥川」は、めまぐるしい変化を象徴する地名」とするし、古く『顕注密勘抄』(日本歌学大系別巻五)に「あすか河は水の増りおとる事のしげきにや、彼河にしもよせて、世中のあらたまりやすきことをあらはせり」とあるのも、同じ認識と言ってよいのかもしれない。しかし少なくともこの歌において、飛鳥川が「変わることの代表的景物」や「めまぐるしい変化を象徴する地名」であっては困るのではないか。

  この歌は飛鳥川の昨日の淵が今日は瀬になってしまうという事実を提示することによって、この世のあらゆるものが必ず変化するのだと主張しているのだろう。その時仮に飛鳥川が変化しやすい川であるという観念があったのだとすると、この世にはそういう飛鳥川ほどには変化の激しくないものが無数に存在するはずである。この世のあらゆるものの中でも特に変化しやすい事例を挙げて、それより変化の激しくないものが変化するのだ、などとする主張の仕方がありうるのだろうか。

  これに対してたとえば『方丈記』は、「ユク河ノナガレハ、絶エズシテ、シカモモトノ水ニアラズ」(注2)と始まる。ここで方丈記は、まず「ユク河ノナガレハ、絶エズ」と、いかにも永遠に見えるものを提示して、「シカモモトノ水ニアラズ」と、それが実際は変化しているのだと論ずる。方丈記はこの後、火事??大風??都遷り??飢饉??大地震などといった災害の例を挙げて世の無常を説くが、その論法は常に、いかに変わらぬように見える物でも実は変わるのだという、冒頭と同じ論法である。火事や大風や飢饉は、長い目で見れば頻繁に起こったとも見えようが、日常的という程ではなかろう。京の都は四百年来そこを都として来た人々にとって、そこが都でなくなる事態など到底考えられなかったことであろう。大地は磐石であることが通常の観念である。がそうした一見堅固に見える事柄も、ある時急激に変化する。それが都遷りであり地震である。そういう一見堅固に見えるものでさえ変化するのだから、始めからそれほど堅固には見えない、例えば人間??人事に関することなど、変化するのが当たり前である、というのがそこに繰り広げられた論理であった。

  「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば」(注3)と、正にこの歌の引用から始まる『徒然草』二十五段は、道長の造営した京極殿??法成寺が、兼好の時代には既に見る影もなく荒廃していた例を引いて世の無常を述べるが、それは京極殿??法成寺が変化し易いものの典型だったのではなく、逆に道長という強大な勢力を誇った人物が財を傾けて造ったゆえに、いつまでも荒廃するはずなどないと思われていた(「いかならん世にも、かばかりあせはてんとはおぼしてんや」)。そういう堅固な建物でさえ、時の流れの中では荒廃せざるをえなかった。だからこそ、それよりも遥かにはかなく見えるあらゆるものが、時の間に変化してしまうのは当たり前だと主張したのであった。

  このように、世のあらゆる物が変化すると主張するためには、出来るだけ変化しにくいと見える例を挙げて、それでさえ変化するのだから、ましてそれより変化しやすいものが変化しないはずはない、という論法を取るのが普通である。とすればこの歌もそうだったのではないか。後世この歌の影響下に成ったあまたの歌々はともかく、少なくともこの歌においては、飛鳥川は変わり易いものの典型などではなく、全く逆に、むしろ永遠に近いものと考えられていたのではなかったか。

  実はそのように読んだと見える注釈もあり、管見の範囲では金子元臣『古今和歌集評釈』(注4)と窪田空穂『古今和歌集評釈下巻』(注5)がそうであった。金子評釈は「着想は、例の仏教思想にして、即ち、涅槃経の諸行無常観なり。その奇警なる点は、余り、変転なき物のやうに、人の思ひすてたる地象に属する川を拈出して、その証左としたるにあり」と書き、窪田評釈は「人事の推移のはげしさを歎いている人が、推移のない地象の飛鳥川を見て、出水のために一夜で状態の変っているのを発見し、それが刺激となって世間というものの真相を大観し、歎きを深めるとともに、諦めの心を持たされたものである」と書いている。

  「読人しらず」とされるこの歌の作者は、飛鳥川を変化しやすいものの象徴などではなく、むしろ変化しにくい自然物の一つと考えていたのではないか。そうした永遠に近いと思われた飛鳥川が、ある時急激に変化した。それゆえ、飛鳥川ほど永遠に近いとは思われないこの世のあらゆるものが変化するのは当たり前なのだ、と考えたのではなかったろうか。

  が、にもかかわらず、現実の飛鳥川は古来その流れが変化しやすい川でもあったらしい。多くの古今集注釈書もその事を述べるが、ここには歴史地理学の知見を示していると思われる『日本地名大辞典29奈良県』(平成二年三月八日角川書店)の解説を引く。

  あすかがわ 飛鳥川 竜在峠付近より発し、高市郡明日香村祝戸で稲淵川と冬野川(細川)を合流し、大和三山の間を西北に流れ、橿原市八木と同市今井の間を通り、北上して河合町河合付近で大和川に合流する。延長二五㎞、流域面積四二??九平方㎞。明日香村祝戸までは岩の間隙を縫うような渓流で、祝戸より同村豊浦までの両岸に段丘を形成する。かつては、豊浦から北流し、天ノ香久山の西方を流れていたものと思われるが、地盤変動で流れの向きが変わり甘樫丘と雷丘の間を切って北西に転じた。甘樫丘の北側では、河床に花崗岩が露出し、「石出の滝」となっている(明日香村史)。橿原市小房町から今井町にかけてはクランク状に曲流し、この付近がたびたび破堤し、橿原市に水害をもたらした。本格的な堤防改修は大正以降で、昭和になってからは洪水の被害はなくなった(以下省略)

  そこで昔から変化の激しかったらしい飛鳥川を、古今集九三三番歌の作者はなぜ永遠に近いものと捉え、その変化をあたかも思いがけないことであったかのように詠んだのか、ということが次の問題となろう。次節では、万葉集におけるこの川の扱いを探ることを通してそれを考えてみたい。

  三 万葉集における飛鳥川

  万葉集には飛鳥川を詠んだ歌が二十四首(「あすかがは」または「あすかのかは」と訓まれているものに限る)見出せるが、その全てが大和明日香の飛鳥川というわけではなく、巻十には河内の飛鳥川を詠んだかと見られる一首が、巻十四には或いは東国の飛鳥川(こちらは現在のどの川に該当するか不明)を詠んだものかもしれない二首が含まれる。

  明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし(巻十秋雑歌二二一四、二二一〇-注6)

  阿須可川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも(巻十四相聞三五六六、三五四四)

  安須可川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば(同三五六七、三五四五)

  これらが本当に河内や東国の飛鳥川を詠んだものであるかは万葉学者の間でも説が分かれており、或いは大和の飛鳥川かとする説もある。がそれらの詳細は万葉集の諸注釈に譲り、本稿の考察対象からは外しておき、ここでは古今集九三三番歌と同じく大和の飛鳥川を詠んだと見られる残り二十一首について検討する。

  さて前掲金子評釈は「万葉を検するに、山川にて、瀬の早きこと、淀のあること、玉藻のおひたること、蛙の鳴くこと、身そぎすることなどのみ見えたり」とする。片桐洋一『歌枕歌ことば辞典』(昭和五八年一二月二〇日角川書店)にも「飛鳥、藤原に都があった時代は当然よく歌によまれたはずだが、「明日香川あすだに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ」(万葉集??巻二)のような同音反復的枕詞として用いられたものを除けば、「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどかにあらまし」(万葉集??巻二)「飛鳥川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ」(同??巻十一)のように流れが早いという把握が一般的であった」という分析が載るが、金子評釈の方が詳しいので、その分析を手がかりに見て行く(注7)。

  まず「山川」であることを詠んだものとしては、

  葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ(中略)神なびの みもろの神の 帯ばせる 明日香の川の 水脈早み 生しためかたき(下略-巻十三雑歌三二四一、三二二七)

  春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほにもみつ 味酒を 神なび山の 帯にせる 明日香の川の 早き瀬に 生ふる玉藻の(下略-同相聞三二八〇、三二六六)

  の二首が挙げられようか。どちらも「瀬の早きこと」を詠んだものでもあり、三二八〇には玉藻が詠まれてもいる。

  次に山川であるかどうかはわからないが「瀬の早きこと」を詠んだものとしては、

  明日香川しがらみ渡し塞かませば進める水ものどにかあらまし(巻二挽歌一九七柿本人麿)

  絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに(巻七譬喩歌一三八三、一三七九)

  今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を(巻十春雑歌一八八二、一八七八詠河)

  明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ(巻十一寄物陳思二七一一、二七〇三)

  明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日くらしつ(同寄物陳思二七二二、二七一三)

  明日香川高川避きて来しものをまこと今夜は明けずも行かぬか(巻十二正述心緒二八七〇、二八五九)

  などが挙げられよう。

  次に「淀のあること」がわかる歌としては、

  明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに(巻三雑歌三二八、三二五山部赤人)

  明日香川七瀬の淀に棲む鳥も心あれこそ波立てざらめ(巻七譬喩歌一三七〇、一三六六)

  の二首が挙げられる。後世飛鳥川の「七瀬の淀」を詠んだ歌は多く(注8)、後者はその本歌となったものと思われる。前掲一三八三に「絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに」とあったように、川水が淀むという事態は飛鳥川の流れが速いというイメージとは背馳するようにも思われるが、川筋に曲折があるのだから、速く流れる部分もあれば淀みもあるのだろう。数多くの淀みのある川というイメージも、確かに万葉歌にはあったと押えておくことにする。

  次に「玉藻のおひたること」については、既に挙げた三二八〇のほかに次のような例が挙げられる。

  飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ(下略-巻二挽歌一九四柿本朝臣人麿)

  飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる(下略-同一九六柿本朝臣人麿)

  明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに(巻七譬喩歌一三八四、一三八〇)

  明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも(巻十三相聞三二八一、三二六七)

  これらに見える<玉藻が靡く>という表現からは、同時に飛鳥川の流れの速さをも読み取ってよいのであろう。

  次に「蛙の鳴くこと」を詠んだものは次の一首だけである。

  今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ(巻三雑歌三五九上古麿)

  この歌の場合、金子評釈の分析には含まれないが、飛鳥川の「さやけ」さ、懐かしさを詠んだものと捉えるべきではなかろうか。『万葉集全注巻三』(西宮一民)は、作者上古麿は伝未詳だが、「奈良遷都後、飛鳥の故郷を偲んで作った歌であろう」と述べている。

  明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ(巻十九-四二八二、四二五九「左中弁中臣朝臣清麿伝誦古京時歌」)

  もそのような例と考えられ、「飛鳥川」乃至「飛鳥の川」といった表現ではないが、「明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川しさやけし」(巻三-三二七、三二四赤人)の「川」は飛鳥川と考えられており(全注)、飛鳥古京の懐古と飛鳥川の「さやけ」さがともに詠まれている例である。

  金子評釈による分析の最後、「身そぎすること」についても例は次の一首のみ。

  君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く(巻四相聞六二九、六二六八代女王)

  歌の中の「君」とは聖武天皇のことであり、これも飛鳥古京を懐かしむ心情が窺える歌と捉えてよいであろう。

  以上例示したのは二十一首中の十七首であった。残る四首を掲げると次の通りである。

  明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ(巻二挽歌一九八柿本人麿)

  年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし(巻七雑歌一一三〇、一一二六)

  明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ(巻八秋雑歌一五六一、一五五七丹比真人国人)

  明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも(巻十一寄物陳思二七一〇、二七〇一)

  このうち一九八と二七一〇は、『歌枕歌ことば辞典』が前者を引用して言うように、「同音反復的枕詞として用いられたもの」の例としてよいであろう。

  一五六一の「行き廻る岡」は「甘樫丘をいうか。飛鳥川はこの甘樫丘の麓をフの字形に取り巻くように流れている」とされ(注9)、或いは山川であることの例に入れてもよいのかもしれないが、表現通り飛鳥川の流路が屈曲していることを詠んだ例と見るべきかとも思われる(注10)。

  残る一首一一三〇も、金子評釈や『歌枕歌ことば辞典』における把握の中には納まり切れない例なのではないかと考えられる。この歌は一見、飛鳥川の流れが激しく変化しやすいから、「年月も今だ経な」いのに「瀬々ゆ渡しし石橋もな」くなってしまったと詠んでいるかにも見えよう(注11)が、万葉集の諸注においてはそうは読まれていないようで、「石橋」は「川の中に配置して踏み渡るようにした飛び石(井手至「石橋と岩橋」万葉昭和三八年一〇月)」で、「この歌は目のあたりに「故郷」を見てその昔を思い人事のはかなさを嘆く」(全注渡瀬昌忠)歌と受けとられている。つまり石橋という人造の施設が有限であることと、自然物である飛鳥川の悠久さが対比されているというのである。飛鳥川を悠久の川として詠む例と見てよいであろう。

  そういう目で見れば、前出のたとえば「音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川万代までに」(一九六)、「明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ」(一九八)、「今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ」(三五九)、「絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに」(一三八三)といった表現からも、飛鳥川の永遠性を読みとることが可能なのではないかと思われる。

  以上により万葉歌における飛鳥川には、金子評釈や『歌枕歌ことば辞典』に示されたもののほかに、流路が屈曲してその周辺に秋萩が生えていること、有限の人事に対比して、また「あす」という音が含まれることからも、永遠性のある川であること、平城京に遷都してからは、「さや」かで川音が清らかな、懐かしい故郷(古京)の川というイメージがあったことが確認できた。流路が屈曲していて流れが速ければ淵が瀬に変わることもあったかもしれない。が少なくとも万葉集においては飛鳥川はそのように詠まれてはいず、むしろ懐かしい永遠の川と認識されていたと見えるのである。

  なお以上の中で「今日」という語を詠み込んでいる歌が二首あった(三五九??一五六一)。「昨日」という語を詠み込んだ例はない。古今集の飛鳥川を詠んだ歌を分析するためには心に留めておくべきであろう。

  四 古今集における飛鳥川

  前節に述べたように、万葉集における飛鳥川には変化しやすい川というイメージはなく、むしろいつまでも変わらぬ川、というイメージがあった。古今集九三三番歌の作者が飛鳥川に抱いたイメージもそれであったと思われる。しかしそういう永遠のイメージは、ほかならぬこの歌の出現によって崩れてしまったようである。ではどのように崩れたのか、この節では古今集における飛鳥川の歌を分析することを通して考察する。

  古今集の中で飛鳥川を詠み込んでいる歌は次の六首である。

  たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし(巻五秋歌下二八四よみ人しらず-左注「又は、あすかがはもみぢばながる此歌右注人丸歌、他本同」)

  昨日といひけふとくらしてあすかがは流れてはやき月日なりけり(巻六冬歌三四一はるみちのつらき)

  あすかがはふちはせになる世なりとも思ひそめてむ人はわすれじ(巻十四恋歌四-六八七よみ人しらず)

  たえずゆくあすかの河のよどみなば心あるとや人のおもはむ(同七二〇よみ人しらず-左注「この歌、ある人のいはく、なかとみのあづま人がうたなり」)

  世中はなにかつねなるあすかがはきのふのふちぞけふはせになる(巻十八雑歌下九三三読人しらず)

  あすかがはふちにもあらぬわがやどもせにかはりゆく物にぞ有りける(同九九〇伊勢)

  但し最初の二八四番歌は、左注には「あすかがは」とする本文があると言うものの本来そうであったとは考え難い。地理的に三室山は竜田川の流域にあって飛鳥川とは無関係である。そこで飛鳥川を詠んだ歌としては残りの五首を検討すればよいであろう。

  この五首の分析も当然ながら既にあり、前掲旺文社文庫や新日本古典文学大系に「地名索引」があって、そこで解説されている。ここには前者を引用する。

  奈良県高市郡明日香村近辺を流れ、大和川に注ぐ川。「あすかのかは」とも。二八四左

  1「明日」を掛ける。三四一。

  2流れが速い。絶えず流れる。三四一??七二〇

  3無常。淵が瀬になる。六八七??九三三??九七〇(????)

  最後の九七〇は誤植であろう。前掲のように九九〇とするのが正しい。また後者には前者で指摘していない「万葉集に詠まれる。能因歌枕の大和国??常陸国にあげる」こと、仮名序にも見えることが指摘されているが、文庫本と新古典大系のサイズの違いを思えば後者により多くの指摘があることから前者の不備を論うべきではなかろうし、むしろどの歌にどのイメージがあるかを分類した前者の方がより具体的で親切と考えることも可能である。そしていずれにしろ、指摘されるイメージが指摘される歌々にあることは首肯できる。但しそういう詠み方が行なわれた経緯、各歌の関係がどうなっているか、という考察はないので、ここではその点について考えたい。

  五首はまず読人知らずの三首(六八七??七二〇??九三三)と作者がわかっている二首(三四一??九九〇)に分かれる。後者のうち三四一の作者春道列樹は延喜二十年(九二〇)没、九九〇の伊勢は生没未詳だがほぼ古今集撰者時代の作者である。彼らの歌が九三三番歌を踏まえたことは明らかであろう。列樹歌には飛鳥川の流れの速さが詠み込まれており、それは万葉集の「明日香川行く瀬を早み」(二七二二)等の表現によったものと見てよいであろう。しかし万葉集の飛鳥川詠には、「今日」という語を詠み込んだ歌はあったが「昨日」までを詠み込んだものはなかった。これは九三三番歌に拠ったとしか考えられないのではないかと思われる。九九〇番歌の淵が瀬に変わるという発想が九三三番歌によるものであることは明らかであろう。

  次に読み人しらずの三首のうち、七二〇は万葉一三八三「絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあると人の見まくに」の異伝であることが明らかであろう。では残る二首はいつ頃の作品でありその先後関係をどう見ればよいのであろうか。

  まず二首の関係は、その表現を比較すればほぼ明らかに九三三が早いと見てよいのではなかろうか。六八七番歌の「あすかがはふちはせになる世なりとも」という表現は、それ以前に飛鳥川の淵が瀬になることを誰かが表現したことがあることを前提にして、初めて成り立つ表現と思われる。

  ところで六八七番歌のこの部分は、一見仮定条件句のようにも見え、「たとえ飛鳥川の淵は瀬になる世であっても」と、実際には飛鳥川が変化しないことを前提に詠んでいるかのようにも見えるが、現在の注釈書においては「修辞的仮定」(旧版岩波古典大系)であって、「非常に転変極まりない世で、明日香河の淵が瀬に変わるようなこの世の中であるが、たといそんな世の中であったとしても、の意」(竹岡正夫『古今和歌集全評釈』昭和五六年二月一〇日右文書院)と解されている。そうとのみ解してよいものかどうか、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」(金槐和歌集六八〇)のような明らかな仮定条件の例を見ると必ずしも首肯し難いのだが、これはあくまでも後世の例、とりあえず古今集諸注の説に従っておく。

  しかしここを修辞的仮定と見、飛鳥川が実際に変化したことを前提にしているのだと解したところで、この歌が飛鳥川を非常に変化しにくい川であることを前提に詠んでいることには変わりがない。「明日香河の淵が瀬に変わるようなこの世の中」を「非常に転変極まりない世」とするのは、滅多に変わるはずがない飛鳥川が変わってしまうほど転変極まりないと捉えているはずだからである。そしてこの詠み方は、古今集撰者時代の伊勢の歌(九九〇)とは全く違う。

  伊勢の歌には「家をうりてよめる」という詞書がある。この歌の「ふち」には川の淵と扶持が掛けられているという説が全集によって提唱され、それを支持する説(全評釈??新大系)とあくまで一説として提示するにとどめる説(旺文社文庫??集成)があるが、「せにかはりゆく」の「せに」に「瀬に」と「銭」が掛けられているという見方は古注以来のものである。それはともかくこの歌においては、飛鳥川の淵は瀬に変わるもの、という観念が既に定着していると見るべきであろう。飛鳥川よりも我が家の方が変化しにくいというのであるから。

  以上の考察により、古今集に見える飛鳥川詠五首の先後関係、影響関係を整理すると次のようになるであろう。

  1 成立が最も古いのは七二〇番歌であろう。古今集のような形になった時期は知れないが、原作は万葉歌である。

  2 七二〇番歌との先後関係は必ずしも明らかでないとはいえ、残る四首の中で最も古いのは九三三番歌であろう。この段階では飛鳥川はあくまでも永遠の川というイメージであった。

  3 それに次ぐのが六八七番歌で、恐らく九三三番歌を踏まえて詠まれた。既に飛鳥川の変化を前提とするが、その変化は極めて少ないとの認識を前提としている。

  4 三四一と九九〇の先後関係は不明だが、どちらも古今集撰者時代の歌。三四一は万葉集に見える飛鳥川の流れの速さというイメージと、九三三番歌の「昨日」「今日」「明日」という表現を利用して詠まれた。九九〇は九三三番歌のみを踏まえ、飛鳥川が変化する川であるという観念を、家を売るという現実体験を詠出するために利用した。

  なおこの歌の作者伊勢には、後撰集にも飛鳥川を詠んだ歌が二首あり(「いとはるる身をうれはしみいつしかとあすか河をもたのむべらなり」(巻十一恋三-七五一)、「あすか河淵せにかはる心とはみなかみしもの人もいふめり」(巻十八雑四-一二五八))、それと関わる形で詠まれたかと思われる別人の歌も二首ある(在原元方七五〇番歌と贈太政大臣-時平-七五二番歌。引用略)。飛鳥川のイメージを逆転した鍵は、或いは伊勢またはその周辺に隠されているかもしれないと思わせる(注12)。

  五 結びに代えて-永遠から有限へ

  古今集九三三番歌や六八七番歌では滅多に変化しないはずでありむしろ永遠に近いものと捉えられていた飛鳥川が、古今集撰者時代の伊勢その他の歌ではどうして変化しやすいものの代表であるかのような詠まれ方をしてしまったのか、その明確な解答は今にわかに出せないが、或いはヒントになるかも知れないと思うのは、次の古今集一〇九三番歌の受容のされ方である。

  君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ(巻二〇東歌)

  この歌に出る地名「末の松山」は万葉集には見えず、古今集初出の歌枕であったが、以後夥しい被影響作を生んだ。しかしこの歌において「末の松山」を波が越えるという事態は、かつて飛鳥川が悠久の川と捉えられていたと同じように、永久にありえない事態として詠まれていたのであったが、これもまた、間もなく波が越えるものに変わってしまう。たとえば『歌枕歌ことば辞典』は、「(一〇九三番歌は-筆者注)奥羽地方で謡われていたものが宮廷の歌謡にもなり『古今集』の巻二十にとられたのであろうが、平安時代の和歌に異常なほどの影響を与えた。一夫多妻制の時代「君をおきてあだし心をわが持たば」と契ることは、男女の間では最も重要なことでもあったからであろう。「わが袖は名に立つすゑの松山か空より浪の越えぬ日はなし」(後撰集??恋二??土佐)「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは」(後拾遺??恋四??元輔、百人一首)など、「すゑの松山」の形でよまれているものも多いが、「荒磯のみるめはなほやかづくらむすゑの松まで浪高くとも」(相模集)のように「すゑの松」という形、「松山をつらきながらも浪越さむことはさすがに悲しきものを」(後撰集??恋三??時平)などのごとく「松山」の形でよまれているものも多い。しかし、そのいずれもが『古今集』の「君をおきてあだし心を??????」の歌を踏まえて表現していることに変わりはない」と解説している。ここに引かれているうちの「わが袖は名に立つすゑの松山か空より浪の越えぬ日はなし」(後撰一〇恋二-六八三、六八四土佐)では既に、末の松山はあたかも波が越えるのが常態であるかのように詠まれているのである。

  次の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪越さじとは」(後拾遺一四恋四-七七〇元輔、百人一首)の場合、「末の松山浪越さじ」と契ったのにあなたはその約束を破ったというのだから、波は越えてしまったというのだが、それはあってはならない事が起こったと捉えているのであって、土佐の歌のように波が越えるのが常態であるというのではない。こうして歌によってニュアンスの違いはあるものの、本歌では永久に越えないとされた波が越えてしまったことには違いない。

  末の松山の場合、本歌当初の観念が逆転した事情は理解しやすい。『歌枕歌ことば辞典』が言うように、「一夫多妻制の時代「君をおきてあだし心をわが持たば」と契ることは、男女の間では最も重要なことでもあった」ろうし、その約束はしばしば破られただろうからである。本歌の「君をおきて」の歌そのものが、その約束が確実に履行されたという保証はないのである。

  とはいえ飛鳥川と末の松山と、この二つの例が、有限から永遠への変化ではなくてその逆であることはやはり注意してよいのではなかろうか。日本人の思想の歴史の中に、永遠と信じていたものをやがて有限と気づくという大きな流れ、言い換えれば元々日本人にはなかったか希薄であった無常の認識が、徐々に明確になって行くという歴史があったように思うからである。

  (注)

  1 和歌の引用は歌番号を含め原則として新編国歌大観によるが、漢字??仮名の使い分けは私に改めた場合がある。また他の本によった場合は注によって断る。

  2 本文は新大系『方丈記 徒然草』による。

  3 本文は新潮古典集成『徒然草』による。

  4 明治四十一年六月二十五日明治書院。手元の版は大正十一年二月十五日の訂正十二版。

  5 昭和三十五年六月一〇日東京堂。

  6 万葉集の本文と表記は原則として角川文庫によるが、訓が問題になる場合以外振り仮名は省略する。歌番号は初出時新番号と旧番号を併記するが、以降は新番号のみで示す。なお「一本云」の本文は省略する。

  7 万葉集の研究の中にも分析例はあるのかもしれないが、今検索できない。

  8 「飛鳥川七瀬の淀に吹く風のいたづらにのみ行く月日かな」(続後撰巻十六雑歌上一〇一八順徳院御製)、「飛鳥川一つ淵とやなりぬらん七瀬の淀の五月雨の頃」(風雅巻四夏歌三六二権中納言公雄)、「春の日もいまいくかかは飛鳥川七瀬の淀にしがらみもがな」(壬二集-家隆-巻三春部二二〇六)など。

  9 完訳日本の古典。全注も甘樫丘とするが角川文庫は「雷岡か」とする。

  10 この歌は「あすかがはゆききのをかの秋萩はけふふる雨に散りか過ぎなむ」(夫木和歌抄巻十一秋部二-四一〇四題不知、万八、丹比国人)という形で伝承され、「ゆききの岡の秋萩」乃至他の植物と組み合わせて詠む例が散見する。

  11 川村晃生『古今和歌集』(ほるぷ出版一九八六)はそう読んでいるようである。「飛鳥川は奈良県の明日香一帯を流れる川で、『万葉集』ですでに(一一二六の引用略)と、転変をテーマに詠まれた歌が見える」とする。

  12 小町集に「世の中はあすか川にもならばなれ君と我とがなかしたえずは(八四)」という歌があり、これが小町真作ならば既に六歌仙時代に飛鳥川のイメージは逆転していたことになるが、片桐洋一『小野小町追跡』(昭和五〇年四月五日笠間選書三六)によれば、流布本小町集のこの歌がある部分は「小町作でないこと明らかな歌を中心にまとめられていると言ってもよい」(八六ページ)とのこと。むしろ淵も瀬も表現としては出さずに古今九三三を踏まえたことがわかる作品なので、伊勢達の歌よりも後のものであろうと推測される。

 

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