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解放军文职招聘考试これは羽が生えたこどもたちの物語です。

来源: 2017-05-21 10:10
 汉译日参考译文

1.21世紀をめざして
これは羽が生えたこどもたちの物語です。
これを読むと、このこどもたちが決して“天才”ではないことに気づきます。このこどもたちがやれたことは、皆さんにもできるか、あるいはそれに似たことができるでしょう。
このこどもたちの羽とは創造力のことです。
私たちの祖先は、石を使って武器や道具をつくりだし、人類自身もつくりだしました。
私たちの暮らしの中で、人類がつくりださなかった物がひとつでもあるでしょうか。衣食住に交通、テレビ、音楽、学校、遊戯など、私たちは四六時中、人類が数百万年にわたりつくりだしてきた成果の恩恵を受けているのです。
人類は数百万年にわたり創造しつづけてきましたが、創造の歴史が終わったわけではありません。この歴史はまだ始まったばかりであり、いま世界は創造が盛んに進められる時代にあります。
世界歴史の大河の中で、いろいろな民族がボートレースをしています。このレースはある意味からいえば、創造力の競争ともいえます。創造力をりっぱに発揮する民族が、先頭に立てるのです。
それぞれの世代には、それぞれの使命があります。先人たちは私たちに、豊かな創造の成果を残してくれました。私たちの世代もそれに何かをつけ加えてこそ、祖先に申しわけがたち、子孫に顔向けができるのです。
創造は知識と不可分であり、私たちは学習にはげまねばなりません。
創造はまた、知識とイコールではありません。先人や他の人が求めて得た知識をくりかえすことができるだけでは、先人や他の人のレベルにとどまるだけです。
ですから私たちは創造力を養わねばならず、しかも小さいうちからそうすべきです。
私たちは今、中華民族が世界に飛躍するという、偉大な、幸せな時代に生きています。
私たちは今、今世紀末に工農業生産高を4倍増するという任務を達成して、生活を中等レベルまで引き上げるため、テイクオフしつつあります。
私たちは、次の世紀中葉、人民共和国建国100周年を迎える頃、世界の先進諸国の水準に追いつき、あるいは近づいて、貧しくたちおくれている状態から完全に脱することを望んでいます。
21世紀前半の主力軍は誰でしょうか?
それは君たちです! 今日の少年たちです!
飛べ、21世紀を目ざして! 君たちの創造力という羽で飛べ!
君たちが社会主義近代化事業で功績をたてるよう、歴史が期待しており、民族が期待しています。

2.なぜ国家公務員制度を確立するのか
国家公務員制度の確立は、幹部人事制度改革の面における重要な意思決定であり、政治体制改革の全般目標を実現するためにとられた重要な段どりである。
なぜこのようにいうのか?
まず、国家公務員制度の確立は、能率的な行政システムを形成してゆく上での必然的要求である。政府機関は、経済建設の組織ならびに 行政実務の管理面における役割を十分に発揮し、自らの責任を引き受けねばならず、そのためには、合理的な構造、整った機能、整備された法体系をもち、能率的で活力に満ちた行政システムを、できるだけ速やかに形成することが求められる。そしてこのようなシステムの形成は、行政機構の科学的設置と職責権限の明確な区分にかかっているほか、全行政システムの要員、即ち国家公務員の素質如何にもかかっているのである。
ある意味からいえば、どのような公務員がいるかによって、それに見合った行政システムが形成される。能率的な行政システムを形成するには、二つの問題をりっぱに解決する必要がある。ひとつはどのようにして最もすぐれた人材を選抜し、国家公務員の隊列に加え、その素質の不断の向上をはかるかであり、もうひとつは、どのようにして彼らの役割を十分発揮させるかである。国家公務員の特徴に合致する一連の法律と規定を定めて、法に依り科学的管理を行うことこそ、これらの問題を解決する効果的な方法なのである。
次に、国家公務員制度の確立は、幹部人事面の法体系整備を強める上での必要な措置である。長年にわたり、われわれの人事管理制度が整っておらず、法体系が健全でなかったことから、国家機関要員の任用、昇任、考課、賞罰など一連の管理の仕事が、法定の基準と手続に欠け、入るだけで出にくく、上がるだけで下がりにくく、賞罰が明らかでなく、「人治」の現象が目立つといった状況をつくり出していた。
数十年の経験と教訓が物語っているように、法に依り人を管理してこそ、法に依る行政が可能となり、法に依る行政を行ってこそ、法に依り国を治められるのである。
第三に、国家公務員制度の確立は、幹部を職種別に管理する上での重要なステップである。いまの「国家幹部」というのはあまりにも漠然とした概念で、しかも長い間、党と行政の幹部を管理する画一的方式で「国家幹部」を管理してきており、科学的でない。
まず国家行政機関の要員を、幹部の隊列から切り離し、特色を備えた国家公務員管理体系を形成して、法に依り科学的管理を実施することにより、国家公務員が国の各種行政事務を効果的に管理できるようにする。国の公務を執行する行政要員をりっぱに管理することは、他の各職種要員の科学的管理にとって、よい手本の役割を果たすであろう。

3.エチケット用語
わが国は悠久の文明をもつ国で、エチケットを重んじる伝統がある。だが十年にわたる動乱(文革)をへて、このようなエチケットを重んじる気風が、めったに見かけられなくなった。逆に、言葉で人を傷つけたり、冷たい態度をとるのが広がっている。こうした現象は、皆が不満であるほか、外国人にも非常に悪い印象を与えている。
アメリカ人はエチケットをあまりかまわず、自由にふるまうという人がいるが、アメリカ人はなかなか情熱的である。もしアメリカの街で道をたずねたら、相手はしばしば親切に道案内してくれる。比較対照してみると、近年来われわれの中にあるエチケットを重んじない現象は改めなければならず、そうでないと国と民族の名誉を損ねることになると痛感する。ここで若干の意見と提案を述べたい。
礼儀正しいことばは、人への尊重と関心に根ざすものであって、虚偽や通りいっぺんのあいさつではない。他人を尊重するなら、道理や教養のない、さらには粗暴な言葉で、人を傷つけるはずがない。人は互いに関心をもつべきだという点から出発すれば、話し方が礼儀正しいだけでなく、相手にまじめさと温かさを感じさせる。「ことばは心の声」、「内に誠意をもてば外に形で表れる」といわれるが、いまわれわれが提唱するのは、正にこのような人への尊重と関心に根ざした礼儀正しいことばであって、俗っぽい決まり文句のことではない。
二、礼儀正しい言葉は、必ず態度と結びつけねばならない。エチケットは言葉で表されるだけでなく、態度と行動にも表れるべきで、二者は不可分である。ある人が口先で「ありがとう」「すみません」などのあいさつ用語をいっても、態度が傲慢だったり、仏頂面でにらんでいたのでは、人に好感を持たれないのはあたり前である。
三、日常生活の中で、人に接するとき、礼儀正しい言葉を多く使い、これを習慣にすること。これは社会の高尚な風格を示すものであって、重要な国際的意義を持っている。「ありがとう」「おはよう」「こんばんは」などの礼儀正しい言葉を、外国人は実によく、ごく自然に使って、生活の中での習慣用語にしているが、われわれはあまり多く使っていない。外国では、顔見知りであろうとななかろうと、朝会えばすぐ「グッド・モーニンダ」「ボン・ジュール」と互いにいうが、わが国ではこういったあいさつになれていない。ところが中国語の「ニンハオ」は、逆に外国人の間ではやっている。多くのアメリカ人が、「中国ブーム」の頃この単語を覚え、中国人を見かけるとすぐ「ニンハオ」という。このようなエチケット用語は、大量に広く使われてよく、自国の言葉以外に、外国語のあいさつ用語も吸収して、中国語の語彙を豊かにしてよいと思う。いま中央人民放送局は、朝の全国中継ラジオニュース番組の冒頭で、「聴取者の皆様、おはようございます」といっており、皆この話し方に好感を持っている。
国際会議、とりわけ国連が召集する各種専門会議の席上、議長は各国の代表を「尊敬する代表各位」と呼ぶ。国際会議でこのような礼儀正しい呼称と用語を使うのは必要なことであり、相互尊重の表れである。われわれの外交の場や文書でも、このようなエチケット用語が残されている。たとえば口上書は冒頭で「某国外務省は某国大使館にあいさつを送ると共に、下記の如く言及する光栄を有します」と述べ、末尾は常に「崇高なる敬意を表します」と結ばれる。たとえその口上書が先方への抗議であっても、冒頭と末尾には同様のエチケット用語が使われる。これは国際的に通常用いられる外交儀礼であり、われわれもそうしているわけである。
四、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、芸術公演等の宣伝手段を用いてエチケット用語を大々的に提唱すること。エチケットを習慣づけるため、宣伝により提唱する必要がある。これにより、エチケットを重んじる社会気風をうち立て、無礼を恥じ、礼儀を美徳とする。こうすれば、少数の者が汚いことばを口にしたり粗暴なふるまいに及ぶことがしにくくなる。こどもの頃から、礼儀正しいことばを使う習慣を身につける必要があり、家庭も学校も社会全体も、このことを重視し、呼応すべきである。より重要なことは、これを一過性とせず、経常化することである。
要するに、いろいろな方法で礼儀とエチケット用語を提唱する必要があり、これをことばでも表し、態度や行為でも表して、わが国を世界における真の「礼義之邦」にすることである。
4.小さな出来事
私が田舎から北京に出てきて、瞬く間にもう六年が経った。その間に見聞きしたいわゆる国家の大事は、考えてみると少なくはないが、すべて私の心になんの痕跡も残していない。もしも私にこれらの出来事の影響を訊ねるものがあれば、ただ私の悪い性格を増大させただけだ、――正直に言うと、私を日に日に人を軽視するようにさせたのだ。
だが、ある小さな出来事だけは、私にとって意義のあることだった。それは私を悪い性格から引き離してくれる。私は今に至っても、忘れることができない。
それは民国6年(1917年)の冬、強い北風が吹いていた。私は生活のため、やむを得ず早朝の道を歩いていた。道ではほとんど人と会わなかった。やっとのことで一台の人力車をつかまえて、S門に向かわせた。ほどなく、北風が弱くなった。路上のほこりは吹き飛ばされて、きれいな一本の道だけが残されていた。車夫もさらに早く走り出した。間もなくS門に近づく頃、突然、車の梶棒(かじぼう)に人が引っかかり、ゆっくりと倒れた。
倒れたのは一人の女だった。髪は白く、衣服はぼろぼろだった。老女は道の脇から突然車に向かって横切ってきたのだ。車夫はすぐに道をあけたのだが、老女の破れた袖無しのボタンがかけておらず、微風で外に向けて広がっていたために、梶棒に引っかかったのだ。幸い車夫がすばやく足を止めたからよかったが、でなければ老女はもんどりうって転び、頭から血を出していただろう。
老女は地面に伏したままで、車夫も足を止めてしまった。私はこの老女はまったく怪我をしていないと思ったし、また誰からも見られていないので、車夫のお節介を不愉快に思った。自分でいざこざを引き起こして、私まで遅れてしまう。
私は車夫に言った。
「何でもないだろう。行け!」
「どうだい?」
「転んで怪我をした」
車夫は私を無視した、――あるいは聞こえなかったのかも知れないが――、車を置くと、老女をゆっくりと助け起こし、腕を支え立たせて、聞いた。
私は思った。お前がゆっくりと倒れるのをこの目で見たぞ、怪我なぞするものか、大げさなふりをしやがって、憎いババァだ。車夫もお節介な奴だな、自分から苦労を買うようなものだ、お前自身で解決しろよ。
車夫は老女の話を聞くと、少しもためらうことなく、彼女の腕を支えたまま、一歩一歩前に向かって歩き始めた。私は不思議に思い、あわてて前方を見ると、そこは交番だった、大風の後であり、外に人は見えなかった。車夫は老女を支えたまま、その門に向かって行く。
私はこの時、突然一種異様な感覚を覚えた。全身ほこりだらけの彼の後ろ姿が、一瞬にして大きくなったと感じた。しかも遠ざかるほどに大きくなって、仰ぎ見ねば見えないようになった。しかも彼は私にとって、だんだんとまるで一種の威圧へと変わっていき、コートの下に隠された私の"小ささ"までも絞りだそうとするほどに思えた。
この時、私の生きる力はおそらく固まってしまったのだろう。ずっと座ったまま動かず、また何も考えないままで、交番から巡査が出てくるのを見て、やっと車から降りた。
巡査は私に言った。「別の車を探して下さい。あの車夫はあなたを運べなくなりました」
私は思わず、コートのポケットからひとつかみの銅貨を取り出し、巡査に渡して言った。「車夫にやってください……」
風は止んだが、通りは依然として静かだった。私は歩いた。歩きながら考えた。だが私自身のことを考えるのが怖かった。以前の事はしばらく放っておくとして、あの銅貨はどういう意味だろう?
車夫をほめたのか? 私に車夫を裁けるのか? 私は自分に答えることが出来なかった。
この出来事は今に至っても、なおよく思い出される。それゆえ私は常に苦痛を耐え抜き、努めて自分自身のことを思いだす。数年来の政治や軍事のことは、私にとってはまるで幼少の時に読んだ「子曰く、詩に云う」と同様に、半句も記憶していない。ただ、この小さな出来事だけは、いつまでも私の眼前に浮かび、時にはよりはっきりと現れ、私を恥ずかしくさせ、私を悔い改めさせ、しかも私の勇気と希望とを高めてくれるのだ。 竹内好訳

5.奇妙な求人募集
大卒以上、教養が高く、苦労をいとわない若年事務員を募集。日中合弁企業の化粧品会社が求人募集を出した。もちろん、給料も相当な額である。
小琴は、名門大学の学歴証明書を携えて面接に赴いた。日本人の社長は、募集条件のどの点に関しても申し分のない、この小琴をしげしげと観察しながら、突然、こんな質問をした。
  「ここまで大きくしてもらうまでに、君はご両親の足を洗ったことがあるかい?」
小琴は幼い頃に母親を亡くしており、これまで父親と助け合って生きてきた。父親は身を粉にして働き彼女を大学まであげた。しかし彼女と言えば、一度もその父親のために家事を手伝ったことがなかった。そこで彼女は恥ずかしさで顔を赤く染めながら、「ありません」と答えた。するとその社長は、では今晩、お父様の足を洗ってあげなさい。明日また会おう、と言ったのだった。
その夜、小琴は努めて父親の足を洗うと申し出た。これまで一度も家事など手伝ったことのない娘が、今晩に限って急に親孝行になって足を洗わせてくれなどと言う。父親はいぶかしく思って、まだ自分は動けるのだし、洗ってもらわなくても結構だと断った。そこで彼女は仕方なく、昼間の面接で社長に言われたことを打ち明けた。
小琴は生まれて初めて父親の足を洗った。そしてこの時初めて、彼の足をじっくり観察したのである。それは、どんな足だったか。父親は毎日、4つの地区をまたがるバスに長い時間揺られて出勤する。バスから降りれば、さらに長い長い道のりを歩かなければならない。その上、退社後はマーケットまで遠回りして食品を買いに行き、ずっしりと重い買い物袋をさげて家に戻り、大急ぎで夕食の支度をする。歩く距離が長いため、彼の足の裏は厚いたこに覆われて、その上には二つのうおの目までできていた。そして今では足を引きずるように歩くようになっている。父親の足は大きく厚く、筋張っていた。関節リューマチを患っているので、発作が起こると膝がひどく痛み麻痺してしまう。父が何度も苦笑しながら言っていた言葉を思い出す。
  「今日は足が痛んでね、バスの乗り降りでは手で足を引っ張り上げなきゃならなかったよ。道を歩く姿はさながらドナルドダックだったな」
小琴は父の足を洗ってやりながら、父のこれまでの苦難と自分に注がれた限りない慈しみを思い起こした。いつの間にか父の両足に、涙がはらはらとこぼれ落ちていく。「お父さん、苦労かけちゃったね」
次の日、小琴は社長に会いに行った。「お父様の足を洗ってあげたかい?」と尋ねる社長に、小琴は答えた。
「昨日の夜、父の足を洗いました。母は私が小さい頃亡くなり、父は私を男手一つで育てくれました。今までとても苦労してきたと思います。社長さんは、これまで私が味わったことのない経験をさせて下さいました。採用されようとされまいと、これから私はきっと父に孝行して、育ててもらった恩に報いたいと思います」
化粧品会社の社長はじっと小琴を眺め、重々しくこう呟いた。
「採用です」

6.べチューンを記念する
(一九三九年十二月二十一日)
べチューン同志はカナダ共産党員で、五十余歳であった。中国の抗日戦争を助けるために、カナダ共産党とアメリカ共産党から派遣されて、万里を遠しとせず、中国に来られた。昨年の春延安に着き、その後五台山にいって活動していたが、不幸にして殉職された。外国人が少しの利己的な動機もなしに、中国人民の解放事業を自分自身の事業としたのは、どういう精神からであろうか。それは国際主義的の精神であり、共産主義の精神であって、中国共産党員の一人一人がこのような精神を学ばなければならない。レーニン主義によれば、世界革命の勝利をかちとるには、資本主義国のプロレタリア階級は植民地・半植民地人民の解放闘争を支持し、植民地・半植民地のプロレタリア階級は資本主義国のプロレタリア階級の解放闘争を支持しなければならない。べチューン同志はこのレーニン主義の路線を実践したのである。われわれ中国共産党員もこの路線を実践しなければならない。われわれはすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結し、日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなどすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結しなければならない。そうしてこそ、帝国主義を打倒し、わが民族と人民を解放し、世界の民族と人民を解放することができるのである。これがわれわれの国際主義であり、これがせまい民族主義やせまい愛国主義に反対するわれわれの国際主義である。
べチューン同志の少しもりこてきでなく、ひたすら人につくす精神は、かれの仕事に対する極度の責任感、同志と人民に対する極度の熱誠にあらわれている。共産党員の一人一人がかれに学ばなければならない。すくなかなぬ人々は、仕事に対する責任感がなく、苦しい仕事は避けて楽な仕事を選び、重い荷物は人に押し付けて軽い荷物を自分が担ぐ。何をするにも、まず自分のためを考え、それから人のことを考える。少しでも仕事をすると、すっかり思い上がって、人が知らないのではないかとこのんでふいちょうする。同志と人民に対しては、あふれるような熱誠をもって接するのではなく、冷淡そのもので、何の関心も持たず、まったく無感覚である。このようの人は実は共産党員ではない、少なくとも純粋の共産党員とはいえない。前線から帰ってきたもので、話がべチューンになると、だれ一人敬服しないものはなく、だれ一人かれの精神に感動しないものはない。山西・チャーハール・河北辺区の軍民の間には直接べチューン医師の治療をうけたもの、またはべチューン医師の活動を目の当たりに見たもので、感動しないものはない。共産党員の一人一人がべチューン同志のこのような真の共産主義者としての精神をぜひとも学ばなければならない。
べチューン同志は医師であった。かれは医療を職業とし、技術については研究にうえにも研究をかさねた。かれの医術は八路軍の全医務関係者の中で、とくに優れていた。このことも、変わったものを見るとすぐに気移りする人や、技術的な仕事をつまらないものと考えたり、将来性がないと考えたりして、それを見くびる人々にとって、非常によい教訓である。
わたしは、べチューン同志と一回会ったきりである。そののち、かれは何度も手紙をくれたが、わたしは忙しかったので、一回しか返事を出さなかった。それも彼が受け取ったかどうかわからない。彼の死をわたしは非常に悲しんでいる。いま、人々はかれを記念しているが、これを見ても、かれの精神がどんなにふかく人々を感動させているかがわかる。われわれは、みな、かれの少しも私利私欲のない精神を学ばなければならない。この点から出発すれば、大いに人民に役立つ人となることができる。人の能力には大小の違いがあるが、この精神さえ持っていれば、それは高尚な人であり、純粋な人であり、道徳的な人であり、低級な趣味から抜け出した人であり、人民にとって有益な人である。
7.モハメッド・アマド
小説の題名はますます長くなって、感嘆詞や句読点を付したものから、ついには「主語述語修飾語」を備えた完全な文を表題とするものまで現れた。これも一つの新潮流というものだろうか。
わたしとしても、ここは毒を以て毒を制すで、この編の題名を「おお、遥かな辺境の親愛なるわが哀れむべきウイグルの兄弟モハメッド・アマドよ、あなたのことを書かしめよ」としょうかとも思ったが、こうした新味ならいは邪道と思い直してやめとした。
「ああ」「おお」式の題名が増えたのは、日本の映画「ああ、海軍」(「ああ、野麦峠」もあった)が、わが国で上映されて以来のことらしい。――これも日本からの輸入だろうか。
映画に「ああ、揺り籠」、小説に「おお、香雪(シアンシュエ)」「おお、十五歳のハリタイよ」「おお、わがひょろひょろのちいさなポプラ」…と、波は広がった。今回わたしは上海に来て、雑誌『小説界』のために中編に手を入れたが、そのさいある人が題名を「おお、わが愛」と名づけたらどうかといったものだ。これはちょっといただきかねるが。
「おお」「ああ」を目障りにしていたわたしが、思いもかけず、ここでその「おお」「ああ」に投降することになった。これはひとえにモハメッド・アマドの力である。
モハメッド・アマド、新疆では「アマド・アマド」と訳す習慣だが、同じ名前がもしエジプトやシリアやスーダンからきたとすると、モハメッド・アマドとなる。いくぶん優雅であり荘重であろう。
わたしは何度か書き直したすえ、後者に従うことにした。けっしてアラブの話のふりをするつもりもなければ、ペダンティズムによって読者を惑わすつもりでもない。こちらでなければ、モハメッド・アマドへのわたしの丁重な敬意を表すことができないからだ。
「日中辞典」の序言
日本の高名な中国語学者倉石武四郎教授が10数年の時間を費やして完成せられた「岩波中国語辞典」は、刊行以来はや20年になる。
先生本来の計画は、ひきつづき、中国語で日本語を解釈する「日中辞典」を編み、「中国語辞典」と併せて一組となそうとするもので、実際の編纂作業もつとに着手せられていたのであった。
しかしながら、先生は晩年とかく病みがちとなられたため、仕事の継続に困難を来たして、1975年に世を去られるに及んでも、稿はなお成るに至らなかった。
幸い高足の折敷瀬君が先生の遺志を継いで、ひきつづき編纂に当たることとなり、今やその全部が完成した。
思い起こせば、倉石先生が「中国語辞典」の編纂に際し、出来上がった初稿を次々と中国科学院言語研究所に送り続けては意見を徴せられたこと、また1954年には自ら中国を訪ねてこられ、私も範文瀾先生の客室でお目にかかるを得たことなどが、今にありありと甦ってくる。
そしてこの度は、折敷瀬君が「日中辞典」全稿を北京に携えてきて、中国の専門家たちの意見を徴し、かたがた私にこの辞典のために序文を寄せるように求めたのである。
私は倉石先生がしかるべき後継者を得られ、折敷瀬君また老師と同じく大いなる謙虚さを以てはるばる北京まで衆知を集めにきたことに感じ、勇んでここに感想を誌し、本書の序言とする次第である。
呂叔湘
8.中国式道路横断
「横断歩道は人数さえ集まれば渡ることができる。信号は関係ない」----。赤信号にもかかわらず集団で道路を横断する様子を「中国式道路横断」としてからかったこんな言葉がこのほど、中国のネット上で話題になっている。このような行動は、交通安全に対する中国人の意識が極めて低いことによると考える人は多い。
確かに、赤信号でも道路を横断する様子は、中国国内のどの都市の道路でも見られる。歩行者の大多数は、安全な外出に対する意識が欠落している。
自動車などに比べ、歩行者は「弱者」であることを誰もが知っている。それなのに、なぜ、集団で「違法行為」を犯し、自分の身の安全を度外視しているのだろうか?
歩行者が赤信号でも渡る主な原因のひとつとして、「違法行為に対する代償」が小さすぎる事実が挙げられる。「みんなで道路を渡れば、あえて歩行者にぶつかってくる車はない」「そんなに問題にすることはない」-----。
これらの意見は、「中国式道路横断」がはびこる理由そのものだ。多くの人は、もっともらしい理由さえあれば、交通法規に背き、赤信号を無視して横断する。安全運転を心掛ける多くのドライバーは、信号無視をする歩行者に対して細心の注意を払い、道を譲るしかない。
誰もが知る通り、中国ではここ数年、自動車の安全運転に対する規制がますます厳しくなっている。多くの都市では、あちこちに高精度の監視カメラが設置され、「信号無視をしても処罰は受けないだろう」という甘い考えを持つドライバーは、少なくなっている。
特に、一部の重点道路区間では、自動車は交通標識線を厳格に守って走行することが求められており、少しでも違反すると処罰の対象となる。
このような状況から出発し、我々は、歩行者の赤信号時の横断に対する処罰も考える必要があるのではないか?強調したいのは、これに関する違反行為を、罰金で片付けるだけでは済まさず、歩行者の安全に対する意識を強化するための教育を強化し、全国民の「安全な外出」という雰囲気を形作ることが、より大切だという点だ。
蘭州市内の多くの交差点には、交通整理担当警官が配備されている。「赤信号なのに渡る」歩行者がいれば、担当警官は警笛を鳴らして阻止する。多くの歩行者は、周囲の眼もあり、やむなく赤信号に突進する足取りを止める。
「運転している時は歩行者を罵り、道を歩いている時はドライバーを罵る」。自動車時代の到来に伴い、歩行者と自動車の確執は深まるばかりだ。歩行者が自身の身の安全に対する意識を高める以外に、歩行者にとって安全な外出環境を整えることも、いっそう不可欠な課題となっている。
一部の都市では、歩いて外出すること自体が、「大変危険なこと」になってしまった。自転車用道路は、事実上の自動車用道路になり、歩道は自動車の臨時駐車スペースと化している。
信号が変わる間隔があまりにも短く、歩行者が渡り切らないうちに信号が赤になる。従って、ある意味、歩行者の「赤信号なのに渡る」行為は、客観的に見た場合、都市交通の計画・管理体制の欠如によってもたらされた現象といえよう。
記者が小さい頃、「マナーを守って道路を横断しよう。安全はみんなのもの」という交通標語があった。しかし、その後数十年経った今でも、この標語を実現することが難しい状況は変わらない。
しかし、我々は皆、「ひとりひとり」が始めの一歩を踏み出し、新しい「中国式道路横断」が「安全通行の代名詞」となる時が近く訪れることを望んでいる。
9.「小金持ち」
「小金持ち」は、「大金持ち」にひっかけた言い方だ。多少の金は持っているが、大金持ちほど裕福ではなく、大富豪から見れば貧乏人のたぐいにはいる。だが、本当の貧乏人に比べれば、とりあえずは金持ちだということができよう。俗に「一万はまだまだ、十万でまあまあ」と言われるが、小金持ちの経済力はだいたいこの程度のレベルである。 
「小金持ち」はしばしば合弁企業に出入りし、外人の間をウロチョロしている。ホワイトカラーの前ではちょっとくすんで見えるが、ブルーカラーの前なら立派なホワイトカラーに見えるつもりだ。社会的な地位はどっちつかず、収入は高からず低からず。料金の高いシャレードのタクシーに毎日乗っていてはたまらない。まあ、人が見ているところではシャレードにも乗ろうが、見ていなければ安い乗り合いで十分。これで少しはゆとりも出ようというもの。
「小金持ち」は片言の外国語を話すが、ペラペラというわけにはいかない。外人と話すときには英語の合間に中国語をはさみ、同国人と話すときには中国語の間に英単語をちりばめる。外人から見れば中国人だが、中国人から見ると、どこか外人くさい。あこがれの国には、ことのほか研究熱心で、ニューヨークやロンドンについて喋らせたら、まるで自宅の庭である。外人の働くオフィス・ビルにすっかり馴染んでいるせいか、手振り身振りも大げさになり、何かと言えば両手を広げて肩をすくめ、「シカタナイネー!」という表情をつくってみせる。
「小金持ち」のほとんどは車が買えるほど裕福ではない。だが車のモデルには滅法くわしく、フェラーリやロールス-ロイスのことを、まるで自転車の荷台か何かのように気軽に口にする。外資系企業に勤め始めると食べ物の好みまで変わり、米の飯やソバなどは口に合わないと言い出す。すっかり洋食党になって、なぜもっと早くこれを食べなかったかと悔やむことしきりだ。しまいには饅頭(蒸しパン)を食べるのにさえナイフとフォークを使うようになり、キュウリの吸い物をスプーンで手前から向こう側へすくって飲んでは悦に入る始末である。
張芸謀の新作に対する王朔の批評
王朔が最近『三聯生活周刊』誌上で連載を開始した「犬の眼で見た世界」というコラムを読んだ。読者にはお馴染みの例の調子で、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の最新作、二作品を批評している。王朔曰く、「『あの子を探して』と『私の父と母』は全くひどい出来だった。観客に対しては、時間と金の無駄遣いはやめろとしか言えない。たとえ他に百種類の選考委員会があって、その全てが賞を与えたとしても、私は同じことを言うだろう」。
彼はさらに言う。「そもそも、この選考委員会というのは、何人かの暇人を適当に見つくろってこしらえたものにすぎない。昔はかなり活躍していたというが、それを楯に今でもふんぞり返っている面々である。だが、もう見せかけの権威に追従する時代は終わった。誰もが自分の頭で考え、自分の目で見ることができるのだ。委員会が張の作品を評価した事実が物語っているのは、彼らのいやらしさと映画祭のレベルの低さだけなのである」。
そして、張藝謀が近作において特にこだわりを持っている美学的テーマを槍玉に挙げ、王朔は次のように述べる。「張はここ数年、一種の強烈な思いに駆られて映画を作っている。その思いというのは、誰からも好かれたいという欲求だ。この頃はマスコミ向けのコメントも八方美人的に如才なくこなして自ら悦に入り、『この世界で生き残れる』という自信が言葉の端々にうかがえるじゃないか」。
「また、張は繰り返し言っているが、『あの子を探して』が最高傑作、『私の父と母』は『素朴さと真実に立ち返った』作品、なのだそうだ。あの真面目くさった表情や実直そうな態度を見ると、誰もが張の言葉には誠意がこもっていると思いこんでしまう。もし彼が本当にこんな事を言ったとしたら、私は以前から流れている噂のほうを信じるしかない。つまり、張がかつての作品の中で見せた姿勢は全て他人から教わったもの、流行に乗っただけのもの、ということだ。結局、張はいつでも上手いことやる奴なのだ」。
10.日本人の「食糧危機理論」
食糧難なんて世界第二位の経済大国とはまったく関係ないと思うのだが-----。学者はこのように推測している。近い将来十数年以内に、日本人の食卓の刺身、寿司、トンカツなどが無くなるかも知れない。その食糧不足となった時のメニューは「ご飯に漬物」だ。学者が再三強調したのは、この食糧危機を作り出す犯人は中国だという。
現在の日本人の食卓には、品質が良くて値段も安い輸入食材がとても豊富で、寿司やトンカツ、牛丼などは日本人の日常の料理となっている。しかし、日本で権威ある「丸紅経済研究所」柴田明夫所長は、日本全体に警告を発している。「もう十数年もすると、これらおいしい食事は一般家庭から消えてしまうだろう。特権階級の家でたまに食べられるだけになる。その時には、お米と漬物に味噌で腹を満たすことになろう。
これは決して“大げさなことを言ってるわけではない”。現在日本人は、たらふく美味しいものを食べているが、しかしこれはみな他人に頼っている物なのだ。日本は毎年大量の肉類、穀物、大豆を輸入している。日本人は毎日カロリーの40%を輸入食から摂取している。しかし“輸入食品”の時代は、間もなく終わりを迎えるだろう。ある日、日本人の食糧の輸入がストップされたら、たちまち「恐慌」を来すことになる。
なんでこんな悲観的な結論を出すのか?柴田明夫氏は、中国がその原因だという。彼の見方によると、中国の人口は、毎年一千万の速度で増えていく。中国十数億人の胃袋を満たすには、全世界から食糧を輸入しなくてはならず、中国はやがて完全なる食糧輸入国になる。
この驚くべき徴候ははっきりと現れている。現在、全世界50%の大豆が中国で消費されており、この需要はますます増えていく。中国人は肉や穀物の需要もドンドン増えている。世界の穀物のストックは急激に減少しており、70年代の石油危機の時の水準に落ち込んでいる。
世界の穀物輸出大国のアメリカも日本と食糧の奪い合いをすることになるかもしれない。アメリカの移民は、毎年500万の速度で増えており、食糧の消費も増大している。2012年になると、アメリカのトウモロコシの90%は内需に使われ、輸出できるトウモロコシはいくらも残らないだろう。日本のトウモロコシはすべてアメリカの輸入に頼っている。アメリカが沢山食べてしまったら、日本人の分は当然減ってしまう。
柴田明夫氏の「食糧危機理論」は、日本社会の関心を呼び、実際、彼は日本政府の諮問を受け「日本の食糧安全研究」を行っている。日本政府は常に「最悪の事態」を想定している。来週、学者懇談会を招集し、「日本はもう食糧危機に直面しているか」を討議することになっている。
この「事前準備」の精神には感服するばかりだが、いささか心配のし過ぎではないかと思う。まず、中国人の胃袋がいくら大きいからといって、日本人の食糧を取ることはない。近年、中国の食糧輸入は逐年増加しているが、ほとんどの食糧は国内で自給自足している。2030年でも、中国の食料輸入は5千万トンを超えることはないし、輸入依存度も10%を超すことはない。国際市場に影響を与えるようなことにはならない。
日本の「取り越し苦労」を笑うこともあるまい。日本は島国で、天然資源が乏しく、大部分が他国からの輸入に頼っている。長いこと日本は、「慎重思考」になりすぎ、いつか地球から消えてしまうのではと恐れている。70年代の「石油危機」の折、アメリカが大豆の輸出をストップしたため、大規模な食糧不足が起こった。日本政府は、歴史の再演を恐れているのだ。
 

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