名)であった
名)であった。第三十二章には「道は常に無名なり」とある。◎そこでこの第三十二章の文と、第四十一章で-、「万物は有から生まれ、有は無から生まれる」とあるのとを、ここの「名無し」「名有り」の句に重ねて解釈すると、無名=道=始源→有名=天地=母→万物という
三段階の生成論的な図式が得られる。ただし、「天地之始Jの四字は馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)によると、甲・乙本とも「万物之始」となっていて、『史記』日者(につしゃ)列伝の引用や王弼(おうひつ)の注の文とも合っている。それに従うと、「無名が万物生成の始源であり、有名が万物の種別が注まれる母胎(ぼたい)である」と解釈できることになって、前の図式からは「天地」は消える。◎「微妙(びみょう)な始源」に対する。「末端の現象」と解訳した。「徼」の字は、「徼」の借字(しゃくじ)とみて明白の意味に読んだもの「少」か深遠でわかりにくいのに対してさこちらは寒面的ではっきりした現象世界である。◎「此の両者」・の句は、帛書(はくしょ)では甲・乙本とも「両者同出、異名同謂」となっていて、
上の「此」、中の「而」、下の「之玄」がない。「異名同謂」は「名は違うが意味は同じだ」
ということ。◎「玄」はもともと色を染め重ねてできた赤黒い色のこと、その不可解な色調から転じて奥深いわかりにくいものをあらわすようになった。ここでは一道」の世界の不可思議ー人間の感覚をこえ、あらゆる思考を絶した深い根源的世界|を形容するものとして使われている・この世のすべての現象は、その奥深いところから微妙なはたらきとして、おのずからに出てくるのだという。
『老子』の上篇は、この第一章が「道」で始まることによって道経(どうきょう)とよばれ、下篇(第三十八章以下)の徳経(とくきょう)と対している・『老子』のことを『老子道徳経』ともいうのは、そのためである・
第一章は『老子』の巻頭としてふさわしい内容であるうえに、この形で長く伝承されてきたが、馬王堆帛書(まおうたいはくしょ)では甲・乙本ともに上篇と下篇との順序がいれかわっている。したがって、この第一章も今の下篇の文章が終わったあとにおかれている。
2 天下みな美の美たるを知るも(世俗の価値にとらわれるな)
世界の人びとは、だれでも美しいものを美しいとしてわきまえているが、実はそ
れは醜(みにく)いものなのだ。だれでも善いことを善いとしてわきまえているが、実はそれは善くないことなのだ。世間でいう善とか美とかいうものはみな確かなものではなく、それにとらわれるのはまちがっている。まこと、有(あ)ると無(な)いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難(むつか)しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成りたち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いとも、たがいに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色(ねいろ)と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、たがいに相手によって順序づけられている。世間のものごとはすべて相対的で依存
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