ある。「聖智」
ある。「聖智」や「仁義」を棄ててしまえというのは、為政者(いせいしゃ)としての君主自身に対することでもあれば、またさらに世界の風潮をそのように変えてしまうことでもある。知恵者や道徳家をもてはやす世界、精巧な技術やそれによって作られた便利なものを慕う世俗の関心、それをひっくりかえしてしまえば、どんなにせいせいすることだろう。そこに真実なものがみえてくるはずである。これは、はっきりした一つの文明批判である。人間的な営みとして築かれてゆく文化文明が、反面で人間を束縛し人間を堕落(だらく)させていくという現実は、確かにある。現代においてとくにはなはだしい。「素朴」を重視してしっかりと守ること、個人のわがままとかってな欲望の解放とを戒めることは、今も必要である。
「聖を絶つ」の「聖」は、もちろん「老子」の理想人としての聖人ではない。ここでは世俗的な意味での人並み以上のとくべフな聖知をさす。「孝慈」(こうじ)は、前の章で「六親(りくしん)不和」の結果とされていたのと矛盾するようであるが、前はお題目としての標語、ここでは孝慈などととくに意識しないその実質。もっとも、ここの前段は「民の利」といい「盗賊」ともあって、世俗の関心に従った書きかたをとっているとみられる。「利を棄(す)っ」の「利」は、功利・利益の意味ともみられるが、上の「巧」との関係からすると便利なものごと一般とみるのがよかろう。第三章には「得がたい珍品を貴ぶのをやめれば、人民は盗みをしなくなるだろう」とあった。「此の三者」より以下の一段は難解で、異説も多い。今は王弼(おうひつ)以来のふつうの解釈に従った。前段の三事は社会的な効果を主にしていて、それだけに浅薄(せんぽく)にうけ
编辑推荐:
下载Word文档
温馨提示:因考试政策、内容不断变化与调整,长理培训网站提供的以上信息仅供参考,如有异议,请考生以权威部门公布的内容为准! (责任编辑:长理培训)
点击加载更多评论>>