といわれる聖人の徳である
営(まど)(熒)える魄(うつしみ)を載(やす)(安)んじ、一(いつ)を抱きて、能(よ)く離るること無からんか。気を専(もつば)らにし柔を致(いた)して、能く嬰児(えいじ)ならんか。玄覧(げんらん)(鑑)を滌除(てきじょう)して、能く疵(し)無からんか。民(たみ)を愛し国を治めて、能く以て為(な)すこと無からんか。天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)たらんか。明白四達(めいはくしたつ)して、能く以て為(な)すこと無からんか。
これを生(しよう)じこれを畜(やしな)い、生ずるも而(しか)も有(ゆう)とせず、為(な)すも而も恃(たの)まず、長たるも而も宰(さい)たらず。是(こ)れを玄徳(げんとく)と謂(い)う。
載営魄抱一、能無離乎。専気致柔、能嬰児乎。滌除玄覧、能無疵乎。愛民治国、能無以知乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無以為乎。
生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
聖人の玄徳(げんとく)として、常人に及びがたい境地を詩的に述べたものである。中心は最初の「抱一」にあるだろう。王弼(おうひつ)は「一とは人の真なり」というが、「一」は第二十三章(旧二十二章)や第三十九章にもみえていて、要するに「道」の別名と考えてよい。「道」と一体になって離れることのない境地、それが、嬰児(えいじ)とか、雌(し)とか、疵(きず)がないとか、知られないとか、
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