これを視(み)れども見え ず
これを視(み)れども見えず (「道」の体験(1))
目を見はってよく見ようとしても見えない、そこで、形のないものという意味で、それを「夷(い)」と名づける。耳をそばだてて聞きとろうとしても聞こえない、そこで音のないものという意味で、それを「希(き)」と名づける。手でさぐりとろうとしてもとらえられない、そこで、微妙(びみょう)なかすかなものという意味で、それを「微(び)」と名づける。これら三つのことは、もはやそれ以上には、たずねてつきとめることはできない。それらは、もともとまじりあって一つになっているのだ。
それの上だからといって明るいわけではなく、それの下だからといって暗いわけでもない。はっきりしないおぼろげなありさまで、これといって名づけようがなく、結局は何ものも存在しない無の世界へとまたもどっていくことになる。これを「すがたのない状(すがた)」「物のかたちのない象(かたち)」といい、また「おぼろげなもの」とよぶ。
やってくるのを前から迎えてみてもその先頭はみえず、さきへ行くのをあとからついていっても、その後ろ姿はみえない。古いむかしの本来の「道」の立場をしっかりと守って、それによって現在の目の前のものごとをとりしきっていけば、古いそもそもの始原(はじまり)を知ることができる。それを「道の中心」とよぶのだ。
これを視(み)れども見(み)えず、名づけて夷(い)と曰(い)う。これを聴(き)けども聞(き)こえず、名づけて希(き)と曰う。これを搏(とら)うるも得ず、名づけて微(び)と曰う。此の三つの者は詰(きつ)を致(いた)すべからず、故(もと)より混(こん)じて一(いつ)と為(な)る。
其の上は激(あきら)かならず、其の下は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復(ふつ)帰(き)す。是(こ)れを無状(むじよう)の状、無物の象(しょう)と謂(い)い、是れを惚恍(こつこう)と謂う。
これを迎うるとも其の首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うとも其の後(しりえ)を見ず。古(いにし)えの道を執(と)りて、以て今の有を御(ぎよ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。是れを道紀(どうき)と謂う。
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