馬叙倫
ない。馬叙倫(ばしょりん)も「道」の字をよいとしている。 さて、「道」を体得した哲人の風貌であるが、「予(よ)として」「猶(ゆう)として」は、「猶予(ゆうよ」ということばもあるように、どちらもためらうありさま、「冬に川を渉(わた)るよう」なのは、先だった行動をしないで「迫(せま)られて後に動く」慎重さ、「四鄰(りん)を畏(おそ)れるよう」なのは、身のまわりのの不意の変化に対応する思慮の深さ、「威儀を正した客のよう」なのはその厳粛さ、「氷がとけるよう」なのは自然なこだわりのなさ、「削ってない墣(あかき)のよう」なのは虚飾のない自然の純朴さ、「深い谷間のよう」なのは、第十一章でなにも無い空間の価値を説いたのと同じて、「応じて蔵せずーなにも持たないでいて無限の対応ができるー」という無心のさま、「濁(にご)り水のよう」なのは、知恵分別を去った愚鈍(ぐどん)さを意味している。いずれも「道」の性質につらなるとしてよいであろう。「孰(たれ)か能(よ)く…」の二句は、底本では下の句が「孰(たれ)か能(よ)く安らかにして以(もつ)て久しく」とあって、「久」の一字が多い。それでは上の句との対応が悪く、王弼(おうひつ)の注からするともとは無かったらしいので、それを除いた。もっとも上の句にも「以(もつ)て」の下に「止」の一字が多いテクストもあるが、意味の上からやはり対応がよくない。この二句、「孰か能く…せん」というのは、なかなかふつうでは行なえない困難なことをいう。真(ま)っ直(す)ぐに明晰(めいせき)になることを求め、積極的に生産を追うのは、世俗の考えである。それをそうしないで、濁りのままをつづけて落ちつきを失わないでいて、しかもおのずからに澄み、おのずからに生み出す、というのである。これを上文と同様に「善(よ)く道を為(な)した」哲人のことと解釈してもよいが、それはつまりは「道」の
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