義は
義は、すべて真実なものが失われた結果としてあらわれたものだ、という。仁義が行なわれ忠臣孝子(こうし)が出るのを良き時代と考えるのは、常識であるが、それを真向(まつこう)からうち破ったのである。道徳をことさらに強調する必要があるのは、それが失われて乱れた状態があるからではないか。戦争が起こったりするからこそ、忠義がやかましくいわれることになる。してみると、仁義道徳はすべて第二義的なものである。第一義として求めなければならないものは、ほかならぬ「大道」(たいどう)の復活であった。第一章を思い出してみよう。「道の道とすべき」もの、それはここでいう仁義・孝慈・貞臣(ていしん)にあたる。それらは「常の道——一定不変の真実の道——」ではないといわれる、その「常の道」がここの「大道」である。第三十八章でも「道を失いて而(しか)して後に徳あり、徳を失いて而して後に仁あり、仁を失いて而して後に義あり」とある(一ニ七ページ)。「荘子」(そうじ)の天運篇では、泉が個(か)れて干(ひ)あがった魚たちが、口からあぶくを出してたがいに濡(ぬ)らしあうのはなるほど美(うる)わしいことだが、満々とたたえた江湖の水中でのびのび一切を忘れて游(およ)いでいるのには及ばない、という。戦争中の美談はそれなりに貴重であるが、やはり平和な世界での平凡な暮らしに勝(まさ)るものはない。「老子」は知恵さかしらを棄(す)ててその平凡さに徹することをすすめるのでもる。
この章は前後の章とも関係が深い。元(げん)の呉澄(ごちよう)は三章をつづけて一章とし、吊書(はくしよ)では「大遣」の上に「故」の宇があっで、やはり達続の意味を示している。「大上」の政治が「大道」に通ずることはいうまでもない。
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