と通じ、
「わたし」という、恐らくは老子自身が、自分に対する世評をとりあげながら、自分で宝として、守っている三つの徳を説明した章である。「慈(いつく)しみ」は柔弱(じゅうじゃく)と通じ、「倹(つつま)しさ」は「嗇(しょく)」
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(第五十九章)と通じ、「天下の先とならない」ことも、「聖人はその身を後(あと)にして身は先んじ」(第七章)などと言われて、いずれもこれまでに強調されてきた老子の主張である。戦国のきびしい競争社会では、もちろnこの三宝は一般から否定されるものであったが、老子はだからこそこれを「宝」賭して提示したのである。俗人の立場からすれば、むしろ真(ま)っ直(す)ぐに勇敢(ゆうかん)を求め、広大を求めるわけであるが、それでは失敗して命をおとすことになるだけだという。「わたし」と世俗との対立は、第二十章で深刻にのべられていた。俗人とは逆のありかたをすることによって、俗人の求めるものがかえって得られるのだといい、また慈愛(じあい)を守ってゆけば、また天の慈愛によって守られるともいって、三宝の実践が強く訴えられている。
◉「天下皆我れを」の「我」の下に底本では「道」の字があり、それに従ってこの章を「道」のことをのべたとみるのが通説であるが、いま傅奕(ふえき)本.河上公(かじょうこう)本その他によって「道」の字を除いた。帛書(はくしょ)にも無い。この章は第二十章(七三ページ)と同様に「我れ」の立場をはってきりと宣言したものであろう。「不肖(ふしょう)」は親に似ないことで、愚かもの。第二十章では「我れは愚人の心」「俗人は昭昭たるも、我れは独り昏昏」などとあった。「細」は小の意味。
◉「三宝「器は仏教語として有名で、仏教では仏.法.僧の三つをさすが、もともと『老子』のここのことばを訳語として応用したものである。◉「器(き)の長」の「器」は、道具の意味から転じて、個別的な仕事に役立つ人材の意味。その人材の意味長官。第二十八章に「樸(ぼく)散ずれば
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