あった
あった。『老子』のこのことばは、それと似ているようで、実は違っている。わかったことをわかったとはしないのである。わかったことをわかったとするような合理主義は、単純で浅薄(せんぱく)だということであろう。現象の奥にひそむ「道」は、日常的な知によって求められるものではない。わかったと思うことは、そう思うことによってすでに一つの陥穽(おとしあな)となるのだ。ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さらに懐疑(かいぎ)して、吟味(ぎんみ)してゆく必要がある。それが知を棄(す)ててみずからを洗いあげていく過程でもある。こうして、ついに「道」にゆきついたときは、それが「道」の体得であり「道」との合一であるからには、もはや何か何を知ってという境涯はすっかり抜けきっていることになるだろう。なぜなら、何かがわかったとか知ったとかいうかぎりはそれ以外の知らないわからない世界をいつまでも残しているのであって、それでは「道」に到達したとはいえないからである。
●「夫(そ)れ唯(た)だ病を病とす、是(ここ)を以(もっ)て病あらず」という中間の二句は、このあとの[聖人は]より以下の文と意味が重なっている。道蔵本や碑石本に二句の無いものがあり、新出の帛書(はくしょ)にも甲·乙本ともに無いから、たぶん古い注のまぎれこんだものであろう。カッコにはさんで区別をしたが、除いたほうがよいかとも思う。●「病」は難の意。短所·欠点のこと。
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