电话:0731-83595998
导航

解放军文职招聘考试80歳を生きて思う 

来源: 2017-10-05 13:39

 80歳を生きて思う 「戦争で死なないでよかった……」 2007/08/10

--------------------------------------------------------------------------------

 

 米軍が沖縄?慶良間諸島に上陸した昭和20(1945)年3月26日より8日前の3月18日、宮崎県は米軍による初の空襲を受けました。

 空襲は南九州から九州全域に及んだようですが、宮崎県下ではこの日1日だけで800機による空襲を受けました。そして、敗戦までに空襲警報が発令されたのは延べ72日。初日の空襲の目標は県下陸海軍の航空基地5ヵ所で、邀撃(ようげき)に飛び立ったのは富高海軍基地(日向市)だけでした。

 私は基地のある日向市にいましたので空中戦を見ましたが、撃墜した米軍機は2機。日本軍機は迎撃に向かった3分の1ぐらいの戦闘機が撃墜された(20機~30機?「日向市史」より)と記されていますが、大本営発表はなかったので正確な機数は不明です。終戦のとき富高飛行場に残っていた零戦は20機ぐらい(「日向市史」より)という証言があるので、やはり、30機は撃墜されたようです。

 この空襲は沖縄の米軍上陸を援護する空襲でした。南九州だけでなく、九州全域への空襲は沖縄上陸前に日本軍の航空基地を攻撃し、地上の飛行機、基地施設を徹底して破壊する米軍の作戦だったのです。

 私はこの空中戦を見ていて、戦争は日本が負けるのは間違いないと思いました。それから私は、どうしたら生き延びられるかを考えました。沖縄戦が終わった後はいよいよ米軍の日向灘上陸が始る、とみんな話していました。一億玉砕。米軍が上陸してきたら、米軍戦車にダイナマイトを抱えて飛び込むのだ、とみんな言っていました。

 私は死にたくない、生き延びたい、どうすれば生き延びられるか。いつも考えていましたが、それを他人と話すことはなく、自分1人で考えていました。こんなことを話す、そんな自由はなかったのです。軍隊に行けば、兵士は玉砕する決心をさせられるのでしょうが、それは暴力と規律、命令で追い詰められるからです。みんなが皆、そう思うとは限らないでしょう。ましてや一般民間人は違っていたと思います。

 子どものころ(盧溝橋事件の頃)、先輩の青年たちが集まって話をしていたのを側で聞いていたら、徴兵検査のときに醤油を飲んで走って行けば合格しない、と話をしていたことを覚えています。私は、少年兵に志願しないで現役召集まで待って兵隊に行くと、後輩たちから制裁を受けるので、少年兵に志願すると母に言いました。すると母は、「あそこは男が一度は嫌でも行かなければならないところだ。死ぬところに慌てて行くバカがおるか。そんなことが分からないのか」厳しく怒られました。

 (「戦争で死ぬのが名誉」という)先生の言うことと母の言うことと、どちらが本当か考えました。それ以来、兵隊には自分から進んで行かないと考え、徴兵検査には病気(脱腸)のままで検査を受けました。「貴様、こんな姿で来て軍隊に役立つと思っているのか」と鉄拳制裁が飛んでくるのかと身を引き締めていたのですが、「乙種合格、徴兵2年延期」と告げられました。これで、2年は皆より長生きできると1人で喜びました。

 みんな、口に出しては言いませんが、心の中は複雑な気持ちだったと思います。沖縄県民の「集団死」も軍の強要がなかったら起こらなかったでしょう。あんな時代ですから、国の為になると信じ込まされていた人もいたと思いますが、大部分の人は生きることを考えなさいと言われていたら、「集団死」をする人はいなかったと思います。

 死ぬことが国のためになる、名誉の戦死、とあれほど言われると思い込まされてしまうのです。私は戦争が終わって、なぜ日本は戦争をしたのか考えました。いま、憲法を戦争ができるよう変えようという人が多くなっているようですが、昔と同じです。昭和20年8月15日に天皇の放送を聞いたとき、「死なずにすんだ、生き延びられた」と嬉しかったことは忘れません。

 

音景色をたずねて(6)長崎?山王神社の被爆クスノキ 2007/08/09

長崎?山王神社のクスノキの音を聞く 4分18秒 MP3

(クスノキのざわめきと周りの町の音など、1日の中で聞こえる「音風景」を4分程度にまとめたものです。ヘッドホンでお聞き下さい。)

--------------------------------------------------------------------------------

 セミ時雨の中、古い街道の石畳の坂道を上り詰めると、潮騒のような音に包まれた。見上げると、枝いっぱいに茂る葉を大きく風になびかせたクスノキの巨木が2本聳えたっていた。深いゆったりとしたざわめきが頭上から降り注ぐ。小鳥のさえずりや子どもたちの歓声、坂下の路面電車、寺院や教会の鐘、港の汽笛……1日たたずめば、様々な音が重なる。

 長崎?山王神社 の夫婦大楠は、樹齢400年とも600年ともいわれる。1820年頃に編纂された『長崎名勝図絵』には山王神社と境内に茂る巨木が描かれている。旧浦上街道沿いに佇む2本のクスノキは、人々の営みをずっと見つめてきた。

 クスノキが恐らくまだ若樹だった頃、この道を京都から護送されてきた囚人の一行が通った。慶長2(1957)年2月5日、豊臣秀吉の命で京都から連行され、長崎?西坂で磔にされる直前のキリシタン「26聖人」たちが、この付近にあった療養所で最後の休憩をしたとの記録が残る。現在、神社のある高台付近は、当時、イエズス会の営む病院があったとされ、2本のクスノキは、入り口付近にシンメトリックに配置された欧風なデザインから考えて、あるいはこの病院のために植えられたものかもしれないという。

 キリシタン禁制の鎖国時代には、この巨木に“隠れキリシタン”を縛って熊をけしかけたという凄惨な言い伝えも地元に残る。島原の乱後、山王権現社が建立され、クスノキは御神木となった。明治維新後は縣社浦上皇太神宮として国家護持の象徴となり、巨木のたもとから多くの出征兵士が旅立っていったことだろう。

  

 被爆直後の浦上地区と山王神社?クスノキ/米国戦略爆撃調査団撮影?長崎原爆資料館所蔵

 様々な時代と人間の愚行を見つめつつ、数百年間ゆったりとしたざわめきを奏でてきたクスノキ。このクスノキが一度だけ沈黙したことがある。62年前の今日、原子爆弾がクスノキの北西800mで炸裂、神社は倒壊し、2本のクスノキも熱線で焼かれた。一面の焦土の中、半ば黒焦げとなった丸裸の巨木が当時の写真に痛々しい姿を残す。

 

 山王神社被爆のクスノキ(推定樹齢400~600年) 「今後70年間は草木も生えないだろう」と当時いわれた 「原子野」の中で、2年後(一説には2ヶ月後)、枯死したと思われていたクスノキに新芽が芽吹いた。奇跡的に蘇った緑……。再生したクスノキの生命力は、原爆?終戦で打ちひしがれていた人々の心に大きな希望と生きる勇気を与えた。人々は太い幹に抱きついて生きることの喜びをかみしめたという。

 山王神社の氏子総代だった故?中村始さんは当時の様子をこう語ってくれた。「ありゃ、(昭和)22年か3年やったろと思うんですが、ふっと南側の枝に新芽がありましてね、皆『ほぉーっ!』ちゅうて喜んで、縄ばタワシのごと丸めてね、水ひっかけて(焦げた部分を)こすったんです。芽ば出だしたら、次々出ましてね。ほらここも、ここもっちゅうあんばいでねえ」。当時20代だった中村さんは、工場で働いていて被爆した。自身は助かったが、両親と妹を失った。

 戦後、クスノキは樹勢を盛り返し、再び深いざわめきで境内を包み込むようになった。復興の槌音とともにクスノキの音も年々勢いを増し、人々の暮らしの響きも蘇った。

 

 クスノキの様子がおかしいと感じられるようになったのは、昭和の終わり頃のこと。台風でもないのに、ちょっとした強風で大きな枝が折れるようになった。虫のつかないはずのクスノキにシロアリがついた。樹木医が診察したところ、原爆の傷跡から腐朽菌が入り込み、樹勢が弱っており、このままだと枯死の恐れがあることがわかった。地元の人々は、「クスノキ保存会」を作り治療のために奔走した。70歳をとうに超えていた中村さんは、保存会会長として、自らパソコンを覚え、クスノキのホームページを立ち上げ、窮状を訴えた。4度の手術で、胃を殆どなくした満身創痍の身をおして、各地に「クスノキ治療のための募金」を呼びかける講演に出かけた。今度は自分たちが助ける番だった。

 こうした地域の運動が背景となって、平成7年、「山王神社の被曝のクスノキの“葉摺れのざわめき”」が、環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」に認定される。ニュースやメディアにも取り上げられ、全国から募金が集まり、やがて行政の支援が決まり、クスノキの治療の道筋が見えた頃、元気になったクスノキを見ることなく、中村始さんは自宅で静かに息を引きとった。クスノキに生かされ、晩年はクスノキのために生きたかのような人生だった。

 中村さんの没後、もうすぐ10年になる。その後、中村さんの思いを引き継ぎ、被爆クスノキの2世を育てる運動が長崎から広まった。地元や県内の小中学校のほか、広島をはじめ、県外各地からもクスノキの種から育てた苗木が欲しいとの声が寄せられ、2003年には、長崎市からニュージーランド、クライストチャーチ市とウェリントン市に苗木が送らた。2004年には米国セント?ポール市に種100個が寄贈された。世界に広まった被爆の記憶を受け継ぐ若木が、やがて大木となったとき、どのような響きを聞かせてくれるのだろうか。

 今、クスノキの下で、静かに目を閉じて耳を傾ける。葉摺れの音に混じって、長崎の町の響きが聞こえてくる。被爆者の高齢化、戦争体験の風化が危惧される今日、被爆樹木は原爆の記憶を物語る数少ない生き証人でもある。クスノキの声に耳を澄まし、そのメッセージを謙虚に受け止める姿勢をいつまでも失わないでいたいと願う。

(※被爆クスノキの治療は今後も継続して行なう必要があり、被爆遺構の保全に取り組む山王神社では治療のための募金を受け付けています。問い合わせ 山王日吉神社 電話095-844-1415 FAX095-844-1513)(2006年7月?2007年8月取材)

编辑推荐:

下载Word文档

温馨提示:因考试政策、内容不断变化与调整,长理培训网站提供的以上信息仅供参考,如有异议,请考生以权威部门公布的内容为准! (责任编辑:长理培训)

网络课程 新人注册送三重礼

已有 22658 名学员学习以下课程通过考试

网友评论(共0条评论)

请自觉遵守互联网相关政策法规,评论内容只代表网友观点!

最新评论

点击加载更多评论>>

精品课程

更多
10781人学习

免费试听更多

相关推荐
图书更多+
  • 电网书籍
  • 财会书籍
  • 其它工学书籍
拼团课程更多+
  • 电气拼团课程
  • 财会拼团课程
  • 其它工学拼团
热门排行

长理培训客户端 资讯,试题,视频一手掌握

去 App Store 免费下载 iOS 客户端