解放军文职招聘考试子どもを産めない男と「続く生」
子どもを産めない男と「続く生」
語らない星子と暮らしていると、目的に向かって精進するとは何だろう? 生半可でそうしてはとんでもないことになるんじゃないかと思われてきます。男は歴史を作り、女を穢れたものとして差別してきましたが、その大元をたどると、聖書が示唆するように、女が“実”の暮らしを立て、男は遊ぶしかないように、つまり“虚”で暮らすしかないようにさせられた。端的に男は子どもを産めないということです。
エデンの園を追われるとき、女はイブ(命という意味)という名前になり、子を産む母として位置づけられます。命を続けることが人間が自覚する根本の価値となったと読めます。男はいわばそこから跳ね出され疎外されている。重度の「しょうがい」をもつ子どもと母親の暮らしを見ているとその思いが募ります。特に母親と「しょうがい」を持った男の子の間には父親は入りにくいので、父親はいたたまれず、逃げるということも起こる。実際、離婚も多いのです。父親を弁解するわけではないが、父親の居場所がないのです。そこをかいくぐるには、ひそかに、「オレが母子をワキで支える」と、いきがらずに覚悟するほかないのです。
「続く生」というのは、「女-母-子」のラインであって、男は精子を与えているにしても、それが本当に不可欠なのか? なぜオスが分化してきたのかは、実はよくわかっていないのです。そのことをモロにつきつけられると男はつらい。メキシコのある地方では、男は働いてはいけない、お小遣いもらって遊んでなきゃいけないそうですが、これはそう耐えられることじゃないです。ライオンのオスの仕事は交尾と侵入するオスの撃退だけです。暮らしの居場所はない。
人間の男の場合もそのきらいはありますが、さすがに“虚”では生きられないので、遊びを“実”らしくする必要があり、そのために学問から芸術、スポーツまで命をかけて競争する。パスカルは戦争も慰戯だと言っています。料理や裁縫や、お茶を飲むことまでそういう遊びにして、真剣に打ち込む。必然的に平凡なくりかえしの毎日の暮らしを貶め、殺して食べる疚しさについてまわる「血」に、聖と穢を付与して、子を産み育てる女、出血する女を差別し、しかも出血しなくなると生きる価値はないと罵るのです。
平凡に繰り返される美しくない暮らしには「つづく」という大きな目的が刻印されているような気がします。そしてその自覚は男には、子どもや母親をそっとかばうというふうに表わされ、自分はそのようにしているというのが、いちばんの満足なんじゃないかと思われます。
小浜逸郎が『死にたくないが生きたくもない』の中で、「養うべき『弱者』というものが、私の身の回りには存在しない」と言っていると大平健が書いています。身内じゃなくてもいい、そういう者がひとりいたらいいと思います。命がけの慰戯をしないと身がもたない男が主役の文化文明は、「ソフトな科学技術」といってももう保たない段階に来ていると思います。
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